少し前の記事「城北公園から枚方公園まで」の中で、「蝶矢踏切り」の件がありましたが、社史で調べてみました。
先ず、枚方工場が建設されたのが、大正9年です。ゼラチン工場(花火をつくっていたとか?
)を買収したそうです。従業員が200名。就業時間がこれもびっくり、朝六時~夕五時。朝の六時からって、なーでっか?答えは分かりません。当時はそんな時間から働くのが普通だったのかな・・・
京阪電車の枚方公園駅から工場まで徒歩15分。当時は淋しいところで、夜は道に迷ったり、狐に化かされた、などの話が残っているとか。田んぼだらけだったので、駅からもよく見え、工場への道はまず踏切りが「潮谷踏切り」・・・蝶矢の前身は(株)潮谷商会である。電柱の一本一本に「潮谷NO××」の記号があり、工場へ行くあぜ道が「潮谷道」という通称であった。要するに、当時潮谷はあの辺では非常に大きな有名な会社であったのでしょう。
枚方工場についてはこんなエピソードもあります。
昭和6年には、秩父宮殿下(昭和天皇の御次弟)が、高槻工兵大隊に御来任した際、名代2名を枚方工場に視察させたとのこと。すごいですねー! 一民間のシャツ工場にくるなんて。
昭和11年には、枚方工場内に、女子工員寮を改造して女子工員のための青年学校「大阪蝶矢実践女学校」(定時制)を開校したそうです。へーえ、全然知らなかった。
昭和18年頃には軍需工場だったようで、枚方新地の芸者衆までが動員されて枚方工場で働いたとのこと。
ということで、話がちょっとそれましたが、CHOYAってすごい歴史があるんだとあらためて思いました。byイッシー
先ず、枚方工場が建設されたのが、大正9年です。ゼラチン工場(花火をつくっていたとか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_sup.gif)
京阪電車の枚方公園駅から工場まで徒歩15分。当時は淋しいところで、夜は道に迷ったり、狐に化かされた、などの話が残っているとか。田んぼだらけだったので、駅からもよく見え、工場への道はまず踏切りが「潮谷踏切り」・・・蝶矢の前身は(株)潮谷商会である。電柱の一本一本に「潮谷NO××」の記号があり、工場へ行くあぜ道が「潮谷道」という通称であった。要するに、当時潮谷はあの辺では非常に大きな有名な会社であったのでしょう。
枚方工場についてはこんなエピソードもあります。
昭和6年には、秩父宮殿下(昭和天皇の御次弟)が、高槻工兵大隊に御来任した際、名代2名を枚方工場に視察させたとのこと。すごいですねー! 一民間のシャツ工場にくるなんて。
昭和11年には、枚方工場内に、女子工員寮を改造して女子工員のための青年学校「大阪蝶矢実践女学校」(定時制)を開校したそうです。へーえ、全然知らなかった。
昭和18年頃には軍需工場だったようで、枚方新地の芸者衆までが動員されて枚方工場で働いたとのこと。
ということで、話がちょっとそれましたが、CHOYAってすごい歴史があるんだとあらためて思いました。byイッシー