目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

鎌倉山越え極楽寺コース 約5.1Km

2019-05-17 11:40:07 | ウォーキング
5月の定番鎌倉山です。近年の観光公害(私の仕事もその一翼を担っているのですが)により、日本人にとって鎌倉はそれほど魅力的な観光地ではなくなってきました。京都ほどではないにしろ、ちょっと人が多すぎます。しかしそんな鎌倉も一歩奥に入ると魅力的な自然が残っています。今回のコースは地元の人に教えていただいた、鎌倉の自然を楽しむコースです。
一昨年は夫婦池公園で雨宿りを強いられるほどの雨。昨年は昼食を割愛して急いで行って、御霊神社で雨に降られました。今回雲が多かったものの、雨に降られず快適でしたね。
今回のブログを書くにあたり昨年のブログを確認すると大作でした。内容がかぶらないようにしようと思っても無理です。内容は昨年のブログを参照していただき、今年は写真を中心にご紹介します。


目黒建設PC製作所
湘南モノレール湘南深沢駅から歩き始めるのですが、近くにストレッチをする場所がありません。少し歩いた場所にあったこちらの建設会社の門前をお借りしてストレッチをします。目黒つながりでいいだろうと勝手な言い訳です。ちなみにPCはパーソナルコンピューターではなく、建築資材の「プレストレスト・コンクリート Prestressed Concrete」の略です。
湘南深沢駅あたりの大字「梶原」についてWikipediaから引用します。
平安時代中期に編纂された倭名類聚抄に鎌倉郡内の七郷の一(梶原郷)として記録がなされており、律令制下の国郡郷制の郷だったと考えられる。現在の梶原よりも広く、深沢地域をほぼ指していたと比定される。
尊卑分脈によると鎌倉景通がここに住み梶原氏を称し、その息子景久が住んだとされ、梶原氏出自の地とされる。景通の玄孫である景時の墓と伝えられるやぐらが深沢中学校の校庭に存在する。一方、新編鎌倉志では鎌倉景正が居住した旧地に同族の梶原氏が居住したと記録されている。
戦国時代には後北条氏の支配下になり、松山衆太田豊後守の知行地となる。小田原衆所領役帳では116貫22文と記される。永禄年間に須崎郷に、新編相模国風土記稿では小松郷に属するとされる。
寛永10年(1633年)より天領となる。
昭和23年(1948年)から鎌倉市の大字となる。昭和58年(1983年)2月7日の住居表示に伴い梶原一丁目-五丁目となった。



笛田川沿いの水田
昨年この水田は代掻き後でした。


ジャーマンアイリスとアヤメ

ハルジオン

カンパニュラ・ポシャルスキアナ
昨年も同じアングルで同じ花を撮っています。


夫婦池

夫婦池公園のシダ



夫婦池公園
ウグイスの声が多く聞かれる気持ちの良い公園です。昨年はビデオに撮ってウグイスの声を紹介していました。

鎌倉山記

鎌倉山からの景色
鎌倉山の歴史をWikipediaから引用します。
鎌倉山という名前がみえる最も古い史料は万葉集に収録された歌とされている。その後も平安時代・鎌倉時代にかけて「鎌倉山」という名称が様々な史料に登場するが、これらの鎌倉山はあくまでも「鎌倉の山」という意味で使われており特定の山を指す物ではない。
この地を限定して「鎌倉山」と呼ぶようになるのは昭和初期、実業家の菅原通濟が深沢村(現:鎌倉市深沢地域)裏の丘陵を「鎌倉山」となづけ別荘地として開拓して以降の事である。1926年(大正15年)に「大船-江の島自動車専用道路」建設が政府から許可されると、菅原らを役員に日本自動車道株式会社が設立され、副業として沿線地の開発が始められた。菅原がドイツ人の貿易商クルト・マイスナーからこの丘陵からの景観がいいことを教えられ、別荘地開発に着手、1929年(昭和4年)に分譲が開始された。当時の大字としては笛田および腰越・津に跨る地域である。
電線の地中化など高価格となるような施設工事は行われること無く、坪単価は安かったが、分譲にあたっては「大船~鎌倉山~江ノ島間を結ぶ自動車専用有料道路による東京への好アクセス」、「上水道・電気・電話完備」など便利さを強調し、さらに最低分譲区画を500坪とし、「高級別荘地」である事をアピールした。
こうした高級感を強調した売り込みが功を奏し、近衛文麿、藤原義江など政財界・芸能界の著名人の一部が別荘を買い求めた。しかし、彼らは別荘地を所有する「鎌倉山住宅株式会社」の株主であり、それ以外の一般の分譲販売はまったく振るわず、ほどなくして同社は倒産、負債整理のため箱根土地株式会社から西武へと転売された。戦後、別荘の多くが進駐軍に接収されてさびれたが、高度成長期以降に住宅地として再開発された。
1985年には笛田、腰越・津から分離し、鎌倉山一~四丁目として住居表示を実施した。






鎌倉山神社

江の島方面の眺望
人間には食べられそうもない筍だけど、子パンダだったら食べるかな?


扇湖山荘
鎌倉神社隣りの扇湖山荘を「田中御殿」と紹介しましたが誤りです。「長尾資料館 わかもと物語 欽弥とよねの”夢の宴”」から一部引用します。面白いの本編もリンクしておきます。
扇湖山荘は長尾欽弥、よね夫妻が鎌倉山に造った別荘で、1931年(昭和6年)より建設に着手し、1934年(昭和9年)に完成しました。 この別荘は鎌倉山の頂上部に位置し、敷地は周囲の山々を含め大凡13万坪で、麓の南と北側の谷戸にはそれぞれ池と茶室を配した庭園があり、 両方の庭はトンネルで結ばれていました。頂上の母屋からは杉木立の間に鎌倉の海が扇形に見えた事から、 長尾欽弥は此処を扇湖山荘と名付けました。
扇湖山荘の造築、造園を担当したのは世田谷の本宅宜雨荘と同一で、建物の設計は数寄屋造りの名手大江新太郎、 作庭は七代目小川治兵衛とその甥岩城亘太郎でした。母屋は、木造2階、地下1階(鉄筋コンクリート造)構造で、 上部構造物は飛騨高山より移築した養蚕農家を再設計したものでした。1階は居間や洋間、座敷で構成され、 南側はテラスとなっており、2階は接待用のサロンと夫婦の寝室兼居間で、地階は収蔵庫でした。 戦後、長尾家は税金対策として財団法人長尾美術館を設立しますが、所蔵美術品の展示場所は改装した地階の収蔵庫でした。
1949年(昭和24年)に長尾欽弥がわかもと製薬から追放され、長尾家は収入の道を閉ざされました。 しかし、夫妻の派手な生活は変わることはなく、以降は所有財産の売却による筍生活となりました。このため、 1960年(昭和35年)頃、扇湖山荘は母屋と主庭園を除く周囲の山や麓の庭園が売却され、その敷地は1万5千坪程度に減少しました。
晩年長尾夫妻は扇湖山荘に籠もりますが、1967年(昭和42年)2月8日に長尾よねが死去すると、 間もなくして山荘は大林組の所有となり、その後料亭「鎌倉園」として営業をしますが数年で閉店しました。 1981年(昭和56年)4月、扇湖山荘は三和銀行が取得し、三菱銀行に引き継がれ研修所として使用されましたが、 幸いなことに、2010年(平成22年)10月に鎌倉市へ寄贈され、終の主を得ることになりました。



極楽寺から鎌倉山への山道

筍とはいえないもはや竹

月影地蔵裏の階段
この道を歩いた田中絹代と歴史学者の服部之総の逸話は昨年引用しているので、そちらを参照してください。



月影地蔵

カキドオシ

極楽寺駅付近の跨線橋

極楽寺坂切通し

星月井
鎌倉の守りのかなめ、切通しです。



御霊神社

江ノ電
原則お寺は音読み、神社は訓読みです。浅草にあるお寺は浅草寺(せんそうじ)で、神社は浅草神社(あさくさじんじゃ)。例外として清水寺(きよみずでら)などが紹介されますが、音読みの神社はあまり思い当たりません。この神社は御霊神社(ごりょうじんじゃ)です。考えてみると明治神宮、伊勢神宮も音読みですね。
境内を電車が走る様子も、鎌倉ではおなじみですね。


長谷寺
令和の長谷寺を撮ってみました。長谷(はせ)になると国語が苦手だった私には音読みなんだか訓読みなんだかわかりません。

この日長谷の観音様にはお参りせず、湘南新宿ラインで恵比寿に出てライオンで一杯。タクシーでONCEに行って、お相撲初日を見ながら数杯。翌日仕事でセーブしていたのに、やっぱり飲みすぎました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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