令和2年2月に目黒区が発行した「めぐろウォーキングマップ」で紹介されているコースです。冊子では「目黒と富士の絆を歩く 8.4km」と紹介されていますが、すこやか歩こう会で歩くときは東大構内、公務員住宅など歩きやすい道を選び距離も短くなっています。
大橋住宅のネジバナ
集合場所の東大教養学部正門前へ向かう途中、公務員住宅でネジバナを見つけました。小さいけれどおしゃれなランですね。
東京大学教養学部旧第一高等学校本館(時計台)
都の重要文化財となっています。夏目漱石も通った一校と説明しましたが、よく調べてみると一高は昭和十年に駒場に移転してきたとのことで、漱石や正岡子規が通った一高は一ツ橋にあったようです。今度訂正しておかなければ!
こちらの正門前をお借りしてストレッチをしました。
正門前のバラ園
こちらのバラも駒場バラの会の方々が手入れしています。
駒場公園
前回は東門から入ったのでこの日は正面から。
駒場野公園正門
ケルネル田圃
田植えが済んだばかりといった感じです。
上目黒氷川神社の手水
富士コースなので初参加の塾生の皆さんには目黒富士登山を楽しんでいただき、氷川神社と浅間神社にお参りしました。富士講について目黒区のサイトから引用します。
歴史を訪ねて 富士講
更新日:2016年3月4日
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
富士講
山を神と仰ぐ山岳信仰は、かなり古い歴史を持つ。なかでも庶民に広く受け入れられたのは、秀峰富士を仰ぐ富士信仰であった。平安時代に記された「竹取物語」にはすでに「不死の霊薬」というくだりがある。今ではビルやスモッグにさえぎられて、富士山を拝むのも難しいが、空気の澄んだ昔のこと、江戸の町民は朝な夕なに富士に親しんだことだろう。
「江戸八百八講」
江戸時代には、霊験あらたかな社寺や霊場に参詣し、あるいはその維持のために奉加寄進を行うことを目的とする「講」という団体が、多く組織された。伊勢講や御嶽講、相模の大山を仰ぐ大山講、富士山を崇拝する富士講などがそれである。
富士登拝は中世以降から行われていたか、庶民に広まったのは、江戸時代の初期に、長谷川角行が教義を整え、講を組織してからであった。角行は無言不眠・水垢離などの難行苦行を積み、106歳で富士の人穴で入定したといわれる。これが江戸っ子に支持されたのか、弟子に恵まれたこともあって、以来富士講は「江戸八百八講」といわれるほど隆盛を極めることになった。
旧暦6月1日の山開きには、講員が団体を組み、白装束にわらじ掛けといういで立ちで、鈴を振り金剛杖をつき「六根清浄」を唱えながら登拝した。ただし女性は不浄とされ、霊山に登ることは許されなかった。
目黒元富士・新富士
安永9年(1780年)、高田村(現在の新宿区戸塚)の藤四郎という者が、はるばる富士のふもとから溶岩塊を運び、近所の宝泉寺領に人造の富士を築いた。昔のこととて、富士登拝は決して容易な道のりではなかったし、経済的にも負担であった。そこへ築山の富士である。本物の富士山に難儀をして行かずとも、築山に登って富士を拝めば霊験あらたかとなれば、多くの人びとに歓迎されたことは想像できる。
その後、築山はあちこちに造られた。目黒では元富士と新富士が並び称され、広重の「名所江戸百景」に美しく描かれている。現在も都内には数十カ所の富士塚が確認できるが、移築されたり、再築されたりしていて、元の姿をとどめているものはほとんどない。なお、下谷坂本の富士塚、豊島長崎の富士塚、江古田の富士塚は国の民俗文化財(有形)に、千駄ヶ谷の富士塚、中里の富士塚は都の有形民俗文化財に指定されている。
目黒元富士は現在の上目黒一丁目、目切坂上にあり、別名西富士または丸旦山といわれた。文化9年(1812年)に目黒村の熱烈な富士講員たちが築いたもので、高さは12メートルほど、つづら折りの登り道があり山頂には浅間神社が奉られていた。旧6月1日の山開きに限らず、江戸の人びとの行楽の名所として春に秋ににぎわったという。丸旦山とは、目黒村の富士講のマークが丸に旦の字であったことからきている。明治11年にお宮や鳥居が撤去され、丸旦マークの碑石は氷川神社(大橋二丁目)に移された。今でも7月1日、浅間様の例祭が行われる。
目黒新富士は元富士に遅れること7年、文政2年(1819年)に、択捉島探検で知られる近藤重蔵が、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)の邸内に築いたもの。東富士、近藤富士とも呼ばれた。近藤重蔵は邸内に三田用水を引き込んで滝を造るなど、趣味人であったらしく、富士の築山も信仰心からというより観賞のためと思われる。昭和34年まで残っていたが、今日では自然石の碑が残るだけである。
菅刈公園のスダチ?
スダチだかカボスだか、どちらかだと思いますが、ミカンの形になってきました。
西郷山公園
菅刈公園内の坂を上って西郷山へ。旧山手通りを南東へ向かい、猿楽塚古墳、目黒元富士を経由し、槍ヶ崎で駒沢通りを横断し目黒新富士(別所坂公園)でウォーキングは終了しました。
地区ウォーク最後となったこの日は、塾生も誘って惠比壽ビヤホールへ。お一人はすこやか歩こう会の入会手続きを終えています。三年ぶりのウォーキング塾から、何名の新入会員が現れるでしょうか?
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
大橋住宅のネジバナ
集合場所の東大教養学部正門前へ向かう途中、公務員住宅でネジバナを見つけました。小さいけれどおしゃれなランですね。
東京大学教養学部旧第一高等学校本館(時計台)
都の重要文化財となっています。夏目漱石も通った一校と説明しましたが、よく調べてみると一高は昭和十年に駒場に移転してきたとのことで、漱石や正岡子規が通った一高は一ツ橋にあったようです。今度訂正しておかなければ!
こちらの正門前をお借りしてストレッチをしました。
正門前のバラ園
こちらのバラも駒場バラの会の方々が手入れしています。
駒場公園
前回は東門から入ったのでこの日は正面から。
駒場野公園正門
ケルネル田圃
田植えが済んだばかりといった感じです。
上目黒氷川神社の手水
富士コースなので初参加の塾生の皆さんには目黒富士登山を楽しんでいただき、氷川神社と浅間神社にお参りしました。富士講について目黒区のサイトから引用します。
歴史を訪ねて 富士講
更新日:2016年3月4日
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。
富士講
山を神と仰ぐ山岳信仰は、かなり古い歴史を持つ。なかでも庶民に広く受け入れられたのは、秀峰富士を仰ぐ富士信仰であった。平安時代に記された「竹取物語」にはすでに「不死の霊薬」というくだりがある。今ではビルやスモッグにさえぎられて、富士山を拝むのも難しいが、空気の澄んだ昔のこと、江戸の町民は朝な夕なに富士に親しんだことだろう。
「江戸八百八講」
江戸時代には、霊験あらたかな社寺や霊場に参詣し、あるいはその維持のために奉加寄進を行うことを目的とする「講」という団体が、多く組織された。伊勢講や御嶽講、相模の大山を仰ぐ大山講、富士山を崇拝する富士講などがそれである。
富士登拝は中世以降から行われていたか、庶民に広まったのは、江戸時代の初期に、長谷川角行が教義を整え、講を組織してからであった。角行は無言不眠・水垢離などの難行苦行を積み、106歳で富士の人穴で入定したといわれる。これが江戸っ子に支持されたのか、弟子に恵まれたこともあって、以来富士講は「江戸八百八講」といわれるほど隆盛を極めることになった。
旧暦6月1日の山開きには、講員が団体を組み、白装束にわらじ掛けといういで立ちで、鈴を振り金剛杖をつき「六根清浄」を唱えながら登拝した。ただし女性は不浄とされ、霊山に登ることは許されなかった。
目黒元富士・新富士
安永9年(1780年)、高田村(現在の新宿区戸塚)の藤四郎という者が、はるばる富士のふもとから溶岩塊を運び、近所の宝泉寺領に人造の富士を築いた。昔のこととて、富士登拝は決して容易な道のりではなかったし、経済的にも負担であった。そこへ築山の富士である。本物の富士山に難儀をして行かずとも、築山に登って富士を拝めば霊験あらたかとなれば、多くの人びとに歓迎されたことは想像できる。
その後、築山はあちこちに造られた。目黒では元富士と新富士が並び称され、広重の「名所江戸百景」に美しく描かれている。現在も都内には数十カ所の富士塚が確認できるが、移築されたり、再築されたりしていて、元の姿をとどめているものはほとんどない。なお、下谷坂本の富士塚、豊島長崎の富士塚、江古田の富士塚は国の民俗文化財(有形)に、千駄ヶ谷の富士塚、中里の富士塚は都の有形民俗文化財に指定されている。
目黒元富士は現在の上目黒一丁目、目切坂上にあり、別名西富士または丸旦山といわれた。文化9年(1812年)に目黒村の熱烈な富士講員たちが築いたもので、高さは12メートルほど、つづら折りの登り道があり山頂には浅間神社が奉られていた。旧6月1日の山開きに限らず、江戸の人びとの行楽の名所として春に秋ににぎわったという。丸旦山とは、目黒村の富士講のマークが丸に旦の字であったことからきている。明治11年にお宮や鳥居が撤去され、丸旦マークの碑石は氷川神社(大橋二丁目)に移された。今でも7月1日、浅間様の例祭が行われる。
目黒新富士は元富士に遅れること7年、文政2年(1819年)に、択捉島探検で知られる近藤重蔵が、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)の邸内に築いたもの。東富士、近藤富士とも呼ばれた。近藤重蔵は邸内に三田用水を引き込んで滝を造るなど、趣味人であったらしく、富士の築山も信仰心からというより観賞のためと思われる。昭和34年まで残っていたが、今日では自然石の碑が残るだけである。
菅刈公園のスダチ?
スダチだかカボスだか、どちらかだと思いますが、ミカンの形になってきました。
西郷山公園
菅刈公園内の坂を上って西郷山へ。旧山手通りを南東へ向かい、猿楽塚古墳、目黒元富士を経由し、槍ヶ崎で駒沢通りを横断し目黒新富士(別所坂公園)でウォーキングは終了しました。
地区ウォーク最後となったこの日は、塾生も誘って惠比壽ビヤホールへ。お一人はすこやか歩こう会の入会手続きを終えています。三年ぶりのウォーキング塾から、何名の新入会員が現れるでしょうか?
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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