文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

春秋…日経新聞7月13日1面より

2011年07月13日 10時46分57秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

…前略。

▼ホラー映画の人気の分野に、死者がよみがえる 「ゾンビもの」がある。
死に体となったはずの人が倒れも倒されもせず、以前よりむしろ攻撃的に立ち振る舞う永田町の出来事を見ていて、失礼ながら連想してしまった。
死に体の悪影響が政界や国全体へとじわじわ広がっていく様は、まさにホラーというほかない。


▼オカルトの語源はラテン語の「隠されたもの」だという。思えば3・11以降、多くの隠されていたものが明るみに出た。
原発の脆弱性、政府の危機管理能力、電力会社のメールの使い方……。この意味では、今年こそオカルトな年なのかもしれない。
見せられる側は、涼を感じるというより薄ら寒い気分だけれど。

フレンチで打ち解けて ジョエル・ロブションさん…日経新聞7月12日夕刊9面より

2011年07月13日 10時19分54秒 | 日記
子供時代は偏食、寮生活で食べ物と向き合う
15歳で見習いに、最初の半年休みなく働く
パリの人気店に入店、著名人を目の当たりに


文中黒字化は芥川。

1945年4月、フランス中部のポワチエ市生まれ。カトリック一家で、父は石工。4人兄弟の末っ子で、子供の頃は極端な偏食だった。バターとステーキ。バターは1日に200グラム食べていました。フランス有数の生バター産地が近かったのです。

ステーキにはフリット(フライトポテト)を添えて。魚もトマトも嫌いでした。心配した母が「息子はステーキとジャガイモしか食べませんが大丈夫でしょうか」と医者に尋ねたそうです。答えは「放っておきなさい。そのうちほかのものも食べ出すでしょうから」。

ほかの食材に触れたのは12歳で中等神学校に入ってからです。寮生活でステーキは出ませんから、様々な食べ物と向き合うしかなかったのです。学校生活は時間的にも内容的にもその年ごろには厳しいものでした。起床は朝6時半。

食事、勉強、講義にお祈り。食事中はおしゃべり禁止で、夜9時半には就寝です。ほどなく寮の台所がよりどころになりました。食事係の仕事に手を挙げたのです。
鍋を洗ったりニンジンやジャガイモの皮をむいたり。お祈りや自習を少しさぼることができましたし、12歳で家を出た少年にとって、シスターと働く時間は何より母性的な愛情を感じられる場だったのです。
それで経済的な事情で学校をやめることになった時、料理の道を志すことにしました。

60年、15歳で見習いとして地元のレストランに入店。3年間を過ごした後、いくつかの店を経て次第に頭角を現す。

見習いの仕事は非常に厳しいものでした。朝7時に厨房に行って炭をおこし、終わるのは真夜中近く。空いた時間は皿洗い、芝刈りや補修工事。冬はジビエ料理に使う野鳥の羽を抜く気の遠くなるような作業がありました。最初の半年は休みが1日もなく、倒れたこともありました。

それでもやめようとは思いませんでした。どこでも同じでしょうから。まだ「戦後」だったのです。上司は戦争中とても苦しい思いをした人たち。食べられるだけありかたい、という時代だったのです。

見習いを終えて勤めたレストラン「グラン・トテル」で、初めて料理をきちんと学ぶことができました。見習いの頃とは全然違う。息を吹き返した、というところです。ホテル学校の教師だったシェフが、教育的な視点から指導してくれたのです。整理整頓や、順序立てて仕事をするといった非常に細かいところまで、丁寧に教えてくれました。

66年、パリの人気店「ル・バークレー」に21歳で入店。将来の三つ星シェフの技量は、この華やかな店で確かなものになる。

海運王のオナシス、歌手のマリア・カラスやイブ・モンタン、女優のブリジット・バルドー。世界のセレブリティーが訪れる店で、実際に私もそうした方々に会いました。

オルトラン(ズアオホオジロ)というスズメより小さな渡り鳥がいるのですが、その高価な食材はサルバドール・ダリの好物でした。脂が乗った熱々のものを頭から食べるのですが、その際、すっぽりとベールをかぶるのです。香りが繊細ですから。世界的な画家のそんな食事場面を目の当たりにしました。

この店の厨房で、初めて日本人の友人もできました。日本からはるばる研修に来ていたのですが、それほど当時のバークレーは有名な店だったのです。彼とは今もやり取りが続いています。私の店、ラトリエにも来てくれました。

彼は仙台在住なので、今回の震災の影響を心配しました。電話も通じませんでしたし。しかし被災から2週間後、フェイスブックで無事が確認でき、ほっとしました。


電子機器は大好きです。寝る前に10分か15分ほどいじるとリラックスできます。でも当時はもちろん、パソコンもスマートフォンもありません。厨房で働きながらレシピを学び、自分でもたくさん作りましたが、書き留めることはできませんでした。

今の若い人にはこうした電子機器かおりますから、新しい料理をすぐ撮影できるし、レシピも記録できます。あの頃の私がこういうものを持っていたら、きっと今ごろは20冊くらい本が書けていたでしょう

(聞き手は編集委員 天野賢一)

ブラジル 高速鉄道 入札見直しへ…日経新聞7月12日2面より

2011年07月13日 10時11分19秒 | 日記
採算配慮、建設と運営分離
応札なく強気姿勢を転換


…前略。

新しい入札条件では、運営事業者は建設部分で発生するリスクを回避できる。

ブラジル政府は鉄道技術を持つ日本やフランス、韓国などの企業が参加しやすくなるとみる。ただ「関心があるのは車両の輸出」谷本連合関係者)が本音の海外企業にとっては、鉄道運営を長期で請け負うのは引き続き高いハードルだ。

日本連合は三井物産以外は車両メーカーの三菱重工業、日立製作所、東芝で構成。鉄道運営の実務を担う現地パートナーを確保できるか否かが焦点だ。

ブラジル政府は建設部分についても国際入札とする方針。ただ、同国の民間建設団体による試算では、総事業費が政府計画を大幅に上回る550億レアルに達するとされ、受注企業が決まるまでは曲折も予想される。

何度も何度も繰り返して読まれるべき事実シリーズ…Newsweek 7月6日号より

2011年07月13日 09時43分23秒 | 日記
ビョルン・ロンボルグ(統計学者)(筆者はコペンハーゲン環境評価研究所所長で、『環境危機をあおってはいけないー地球環境のホントの実態』の著者)  文中黒字化は芥川。

まずはすべての国がより豊かに、より強くなることを優先すべきなのだ。しかし、これまでの温暖化対策はC02の排出量削減を急ぎ過ぎていた。
 
このアプローチは歴史を無視したやり方だ。私たちはこれまで、成長や対策の発見、イノベーションを通じて疾病や栄養不良、環境問題を改善してきた。貧困から脱した数億の人々に対し、「石炭を燃やすな。繁栄を諦めて貧しい生活に戻れ」と言うのは無理な話だ。

♪ 嗚呼 パリの都は 今も変わらねど 歌う心の 我は一人 ♪ 

2011年07月13日 07時52分16秒 | 日記
昨日のgooの結果で一番嬉しかったこと。

07月12日のページごとの閲覧数のベスト20は、全て、芥川の本望で本懐でもあるのですが、昨日の実質的な一番だった「フレンチで打ち解けて ジョエル・ロブション」47Pは、とても嬉しかったのです。

何故なら、彼の言葉には、芥川そのものと言って良い言葉が、幾つか散りばめられていたからです。いつか、心から思う存分泣いても良い時があれば、泣きたい…そんなインタビュー記事だったのです。

♪ 嗚呼 パリの都は今も変わらねど 歌う心の 我は一人 ♪ 

だからこそ、今、そこに在る、史上最低の醜悪=下品と、彼を選択した者たち、そして今

2011年07月13日 07時23分30秒 | 日記
だからこそ、今、そこに在る、史上最低の醜悪=下品と、彼を選択した者たち、そして今、言語道断にも、この男を支持したり、入れ知恵を為したりしている阿呆たちと言うか、これ以上ない悪党どもに対しての、芥川の舌鋒は、止まる訳がないのである。

何故か?書くために生まれて来た鳥が、これ以上ない数々の試練を経てなお、書き出したからなのである。

東大出でございます等と言う凡百の悪とは違う、どえらい文章なのである。(呵々大笑)

書くという事について。

2011年07月13日 07時08分57秒 | 日記
書くと言う事は、ひっきょう、悪を糾すことなのだと、芥川は思う。

そうでない言論や文筆は何物でもないといっても過言ではないとさへ芥川は思う。

男と女の惚れた腫れたを書くのも良いのだが…それだけで生きれたら、人生は万々歳なのだから。

もとい、ならば、悪との戦いに於いて、輝かしい勝利が来る事を、芥川は天に祈るのである。

時は、正に「天の川」の季節。

内田樹が、生意気にも(笑)、大市民と題したコラムを、週刊アエラで書き出したように、

芥川も、この世が、大市民で埋め尽くされた世の中に為って欲しいと、白鳥の歌を書き続けるのである

夢と言うものは、不思議なもので、突然、友人が現れたりetc.は…。

2011年07月13日 06時25分55秒 | 日記
夢と言うものは、不思議なもので、突然、友人が現れたりetc.は、読者の方々も経験されている通り。

芥川は、今朝、だいぶ以前に書いたD君が夢に現れた。彼は元々関西出身で親父さんの仙台支店への転勤で、高校1年生時分に、我が母校に転入して来た。忽ち、その秀才振りを発揮して、芥川も所属していた文科系では一番を続けたのだった。

芥川が勉強の出来る家庭に在ったならば、唯一、彼を打ち負かす存在だったのだが、それは、既述したように、神様が芥川に与えた人生ゆえ、叶わぬことだった。何故、彼の夢を見たのかを書く前に、彼の人生をもう一度振り返って見よう。言わば故郷に戻るようにして、彼は大阪大学法学部に入った。1年間、米国に留学、卒業年度を1年ずらし日本の大商社に入ったのである。

偶々、或る大手不動産会社に所属していた芥川と遭遇したのは、地下鉄淀屋橋駅のプラットフォームに於いてだった。素敵な奥さんの素晴らしい家庭で、芥川が所属していた会社が分譲したマンションに暮らしていた(分譲主は彼が所蔵していた大商社だった)、そこで素晴らしい料理と共に、これ以上ない歓待を受けたのだった。

ほどなくして彼のニューヨーク転勤が決まり、彼に家を何処かに社宅として貸してほしいとの依頼を受けた芥川は、山下海運汽船に貸すことで、その任に応えたのだったが、芥川には、会社勤めは本質的に無理な所が在った訳で、会社を辞めて、独立して大分経った頃、ふと、彼の事を思い出して、会社に電話をしてみたら、「だいぶ前に辞めまして、今は、ニューヨークで弁護士をしています」「分かりました、有難う」

この後の事は、以前に書いた通り、大阪で、何と言う偶然と、北新地で、お互いに一人で再会したのだった。やがて、彼は弁護士を辞め、日本を代表する製薬会社の北米担当重役に転職した。

僕は、聞かなくても分かるのだが、彼の心には「弁護士は男児一生の仕事に非ず」が、在ったはずだと。

彼が夢に現れたのは、既述したように、S君が、「D君が、作家としてデビューした」との葉書をくれたからだろう…今、こうして書き続けている芥川に呼応したのだろう、と思うのだ。

次章にて、書く事について、短文を書いてみようと思う。