文中黒字化と拡大は芥川。
唐突な言い方だが、私はこのところ原子力発電がかわいそうに思えてならない。誤解されると困るが、私は今後も原子力発電所をどんどん建設せよと言っているのではない。
37年前、青森県の陸奥湾に原子刀船むつが係留され、テスト航行で放射線が漏れて大騒ぎとなった。
私は当時、むつ騒ぎを取材するため青森へ行き、まず反対派の集会を取材した。リーダーらしき人物が、「強い風が吹いてむつが転覆すると、青森県は第二の広島になる」と叫んでいた。私は呆れて、次に推進派の集会に行った。すると、やはりリーダーらしき人物が、「マスコミでは放射線は体に悪いように報じられているが、そんなことはない。体が悪くなるとラジウム温泉に行く方がいるでしょう。あれは強い放射線が出ているのですよ」と話していた。
推進側も反対側もムチャクチャである。これでは原子力船むつがかわいそうだと感じ、原子力とは何かを丹念に取材してまとめたのが『原子力戦争』(筑摩書房)だった。
現在も、そのときと同じ思いになっている。推進側も反対側も原子力発電に対して無責任だ。
たとえば、2009年に、1140年前の貞観地震が大きな問題となった。明治29年の三陸大津波のとき福島原発周辺には4~5メートルの津波しか来なかった。だが、貞観地震では十数封の津波が襲っている。そのことが大きな問題となったのに、結局、福島原発は緊急冷却装置や自家発電のためのディーゼルなどを、現在より十数メートル高い場所に置くことはしなかった。そうしておけば、今回の事故は起きなかったはずである。
なぜしなかったのか。検討はされたが、結局、責任ある立場にいる人間が、責任をもって決断することができなかったということのようだ。
さらに、54基の原発の建屋では、おびただしい数の使用済み核燃料が、プールに浸かったままになっている。危険きわまりない放射能の塊である。だが、それを処理するためのガラス状に固める仕組みはできておらず、最終的に処理する場所も決まっていない。要するに、トイレのないマンションである。
フランスではガラス状に固める仕組みができているが、当初、国産でいくことになっていたので、それをフランスから導入することを決断する人間がいないようである。
原発の世界には、このようなことが数多くある。これまでの流れを、それぞれの人間がそれぞれの役割で維持するだけで、責任を持って変更や廃止を決断できない。これでは原発がかわいそうではないか。
現在は〝脱原発″がこの国の大きな流れになっているが、脱原発をしても、使用済み核燃料をガラス状に固める仕組みは、なんとしてでも完成させなければならず、最終処理の場所もつくらなければならない。脱原発というとすっきりした気持ちになるが、原発は、終わった後の処理が運用以上に大変なのである。
脱原発ブームには、後の処理の大変さを考えない無責任さを感じざるを得ない。
それに、脱原発と言っても、原発がゼロになるには少なくとも20年以上かかり、福島原発のような事故を起こさないためには、地震や津波に対する原発の安全性をこれまで以上に高めなければならない。もちろん、原発に代わるエネルギーの開発も容易ではない。
私か原発がかわいそうになっている理由をご理解いただけるだろうか。