随分,長い間更新をしてなかった.それには二つの理由があった.
まず,瞽女宿については一通り紹介が終わったこと.詳細な検証に付いては次の機会に委ねることにしたからである.それともう一つ,私がライフワークにしている,田中一村の足跡,紀伊と吐?喇諸島,奄美諸島をたどってみることを優先したことである.
さて,瞽女を支えた瞽女宿と違った視点,観点から,瞽女街道に関わった伝統文化,生活,経済,歴史等,これらに点在する瞽女との関わりについて特にピックアップして書いていきたいと思う.ただ,私が一番関心を持っている瞽女街道との関わりのある視点については,他の媒体によってあきらかにしていくつもりである.
まずは瞽女街道に残る伝統文化,とりわけ食文化について書いていきたいと思う.
瞽女達の12月の旅の中心は中頸城方面,主に大日,杉本キクエの出身地.東中島.百々,今保,森田,十二ノ木,馬屋,曽根田,吉木,大鹿,片貝,二本木,三つ屋,板橋,石塚,高田となる行程である.
初冬の旅立ちは11月の下旬.関川にかかる稲田橋を渡ることからはじまる.今は三和区と言われる平地の中の集落を歩き,関田山脈の足下を探っていく.関田の尾根の足下から,南葉山の麓,その南葉から連綿と続く妙高山麓深く点在する,岡沢,西野谷の豪雪地帯へ.この辺りは12月初頭とはいえ,雪に合うことが少なくはない.妙高から斑尾へと続く凍てた道をたどり,大鹿へ.そして日当りの良い二本木,板橋,そして高田の町へと続き,初冬からの旅を12月27日をめどに終えるのだった.
東本町の杉本家から一つ目の交差点.ここを左折する
その交差点から,稲田橋までは5分ほど.現在は木の橋から永久橋に架け替えられている.農作業の方に聞くと昭和30年当時は木橋であったという.今の橋は17,8年ほど経つという.
一間強の間取りの町屋.こんな細長い建物.しかも両隣がないということに,見ている私も身につまされる
恐怖を感じるが,問題はないのだろう.
稲田橋の中程から稲田の町並みを見る.米山が町並みの奥に
橋を渡り,大きな交差点.大日には左折する.左折すると,右手に用水ぶりが有り,その用水堀の上にはふたがかけられている.道はうねり,S字状の街道に沿って町屋が並んでいた.
稲田の町屋街は用水とその用水に沿って設らわれたガードレールが景観を遮ってうるさいが,魅力のある町屋と家並みが残っている.そのなかに篠宮麩店とある看板に気がついた.
関東では麩はなじみのない食べ物である.食料店においてはあるが買う客を見たことがない.とりわけ私の家では良く食卓には上ったが,他でお目にかかることはなかった.新潟生まれの私,新潟に嫁にいった母.その母だからこそ嫁ぎ先の食材としての麩を認識していたのだった.だから麩は良く食べさせられた.
そんな話をご主人と話をしていると,新潟の白根ね,白根あたりの麩は家のより大きいんです.家のはふた廻りは小さいし,焼き方もちがうんです.と教えていただいた.
曲がりくねった稲田の集落を抜け,しばらくいくと大日の集落.昔の面影は想像もできない,新興地である.車で走り抜ければ数秒とはかからない小さな集落であるが,車を置き,集落の中に足を踏み入れてみると,立派な大きな家ばかりが立っている.廻りは平地で耕作地が多く,さぞかし地主さんがおおいのであろうか.それとも近隣に多く有る,アウトレットや施設の地主だったからであろうか.
広い水田を見下ろすように縦長の雲が浮いていた