『瞽女の幽霊』
三代目 歌川広重
東海道五十三次 広重・国貞 「舞阪」1855作 双筆五十三次、舞阪(双筆五十三次謎解き浮世絵叢書より)
東海道五十三次二川 (竪絵) 広重
東海道中膝栗毛 4編下(1863作)十辺舎一九(1765〜1831)
「宮の宿」二人の美人瞽女と泊まり合わせた弥次・嘉多は瞽女の歌う伊勢音頭に踊る。夜半、夜這いにいくも騒がれ未遂に終わる。
木曽街道(伏見宿)中山道 歌川広重
『瞽女の幽霊』
三代目 歌川広重
東海道五十三次 広重・国貞 「舞阪」1855作 双筆五十三次、舞阪(双筆五十三次謎解き浮世絵叢書より)
東海道五十三次二川 (竪絵) 広重
東海道中膝栗毛 4編下(1863作)十辺舎一九(1765〜1831)
「宮の宿」二人の美人瞽女と泊まり合わせた弥次・嘉多は瞽女の歌う伊勢音頭に踊る。夜半、夜這いにいくも騒がれ未遂に終わる。
木曽街道(伏見宿)中山道 歌川広重
『瞽女朝顔』二作とも署名には歌川豊国とあるが、説明には国貞とある。
豊国 1769〜1825 国貞 1786〜1865
秋月弓之助娘深雪 後二瞽女朝かほ 歌川国芳 1798〜1861
浮世絵にあった一番古い瞽女絵「琵琶法師と女盲」曽我物語を歌う
この時代、瞽女は鼓を多用して演奏していたようだ。
また、瞽女という呼称は、まだなく、女盲(めくら)とよばれていたようだ。
土佐光信 七十一番職人歌合(1657年)明暦3年
菱川師宣 「和国諸職絵つくし」貞享2年 1685年
菱川師宣 「和国百女」元禄8年(1695年)まだ女盲とある
西川祐信 「百人女品定」享保8年(1722年)
1700年代に入ると盲女とかいてごぜとある
歌川国貞画(1786~1865年) 「瞽女朝顔」瞽女は三味線だけでなく鼓、琴も演奏していた。「駒沢治郎」
歌川国麿(生没年不明、国貞の弟子なので江戸終期〜明治)「左衛門蝶吉」「蝶吉」
浮世絵での瞽女絵は、広重の東海道五十三次の『二川』の宿が、よく知られている。
茶屋の看板には「名物・かしわ餅」とある
「歌川広重」(1797〜1858)安藤広重とも呼ばれるが、安藤は本名。しかし画号としては安藤広重ではないと、本人は言っていたらしい。
「二川」は今の愛知県豊橋市二川
広重の東海道五十三次・『沼津』(行書版) 名物 鰹節を製す
通常版、広重東海道五十三次ではこの版画は出てこない。行書版の沼津として別にあるらしい。
広重、東海道五十三次細見図絵(弘化年間) 『大磯』
「ごぜ旅かせぎ・旅虚無僧・田舎医師・旅僧」
勝川春山(生年不明〜天保12没、1841年)
『青桜俄盛遊』
「俄」とは吉原芸者による山車での公演で、8月半ばから9月の半ばまでの30日間を吉原仲の町を練り歩いた。
葛飾北斎(1760〜1849)「ごぜ図」津和野美術館とある
先日手に入れた、江戸川区郷土資料集の瞽女の記録から、浮世絵には少ないながらも瞽女が絵がかれていることがわかったので検索してみた。古くは室町時代時代から描かれていたようだが、江戸時代晩期の浮世絵には多くの瞽女の存在が記憶されていた。
葛飾北斎の娘 葛飾応為画
葛飾応為はお栄といい,北斎の三女。1800年生まれ、没年不明、1866年没説もある。今のところ作品も10点ほどしか判明していないという。
北斎をして娘は天才だと言わしめたという。
「三曲合奏図」瞽女は三味線だけではなく 鼓 琴も演奏したらしい。
この絵が瞽女であるかは窺い知れないが、左、三味線を引く女性はそれらしい
葛飾北斎 北斎漫画・八編15丁より 「座頭と瞽女」
斎藤真一の描く首絵も、これらの首絵の手法の影響を受けたのかもしれない。