不動の滝音がしじまを裂く。
毎年、8月10日に行われる上越市板山不動尊の十日夜(とうかや)
今年は行けなかったが、昨晩は板山集落の方々によって、しめやかに取り行われたと想像する。
役行者が7世紀頃開いたとされる、一枚岩の磨崖に二百体以上ある石仏に灯りを点け祈る。
黄泉の国(ヨモツクニ)への入り口かとみまうばかりの幻想的な光景である。
磨崖への入り口にたたずむ不動明王
色鮮やかな天井岩。
思わず手を合わせたくなる光景である。
不動の滝音がしじまを裂く。
毎年、8月10日に行われる上越市板山不動尊の十日夜(とうかや)
今年は行けなかったが、昨晩は板山集落の方々によって、しめやかに取り行われたと想像する。
役行者が7世紀頃開いたとされる、一枚岩の磨崖に二百体以上ある石仏に灯りを点け祈る。
黄泉の国(ヨモツクニ)への入り口かとみまうばかりの幻想的な光景である。
磨崖への入り口にたたずむ不動明王
色鮮やかな天井岩。
思わず手を合わせたくなる光景である。
「いすすぐら」とは、なんとも心くすぐる語句であろうか。上越市安塚区樽田
「いすすぐら」とは石臼倉が訛った様である。この樽田には「いすすぐらの滝」があるが、この滝の形が石臼に見えたところからこの名前が付いたようである。
この石仏の上部ピークに城跡(樽田城)があった関係でこれら石仏があると思われる。
日本は石仏が多い国だ。市街から郊外に出るとそれは顕著である。石墓文化が後押ししているのだろうが、どんな山奥でも人臭のするところには必ずといっていいほど、石仏がある。一時城跡を訪ね、熊さんのように山里を徘徊したものだ。倒壊し、埋もれ、忘れ去られた石仏を目の当たりにして、人心の荒廃と貧しさばかりが胸を過った。おそらく石仏文化は無くなって行くのであろうが、かっての日本人の美意識と心の豊かさは無くしてはいけないのだと思う。
私は信心とは縁はなく、自然流、自然より学ぶとして生きてきた。あえていうならば、宮本武蔵が言った、「神仏を尊び、神仏に頼らず」である。
案内板には五如来とあったが如来様は4体しかなかった。右端の岩室に鎮座していた如来は亡くなったようだ。
ここは急峻で足場が悪いのでそばに行くのは、足こしらえが必要です。
上越への通い道にある、上越と十日町の町境の峠にある石仏。
十日町清洲峡手前、程島にある戸隠山とある碑(役行者の石仏と大欅、目通り9、2mだそうだ)
奥にある役行者の石仏
樹齢は分からぬが2、3百年はあるだろうか。二本の神木に挟まれて石仏はあった。
5月15日に紹介した鳥首岬の壊れた石仏堂、21日に訪れてみると立派な新築のお堂に代わっていた。
お堂のどこにも記名がないのでどなたが新築建立したのかはわからないが、これでひとまずは安心ということである。
石仏堂背後にある旧北陸本線トンネルを利用したサイクリング道には夕日が溢れていた。
階段を登った奥に地蔵堂がある。
鳥首岬の先端に地蔵堂がある。地蔵堂の前は国道8号の駐車帯になっており、駐車した折には石仏達に会いに行く。しかしここ数年の雪で春先訪れてみると地蔵堂が壊れてしまっていた。辛うじて破壊は免れてはいるが、このままではお地蔵様たちに危害が及ぶのは間違いない。
五月初旬、壊れた堂はすっかり片付けられ石仏はあらわになった。おそらく新しい堂が設らわれると思われる。
鳥首岬の名の由来
岬に近づいても鳥首らしき造形を感じる景観はないし、Google地図で俯瞰図を見ても鳥らしきものはないが、夕陽を撮影していてふと思ったのは、遠方から見る岬の凸凹のシルエットが鳥が首を伸ばしたように見えなくもないのである。
山陵が頭で先が嘴に見える
赤城山麓の小さな村小川の脇にひっそりと立つ。群馬県桐生市新里町「関の磨崖仏」
上越通いの道すがら何百回も通り、看板を見ても素通りしている気になる場所を今回、寄り道してみた。猪年のせいか、旅行に行っても、目的地以外はまず寄り道しない性格は損をしているかも。良い場所をたくさん見逃してきたのかもしれない。