上越市大潟区には人魚伝説とカッパ伝説があるということを、潟町散歩で少し触れてみたが、以前、上越市にある人魚像廻りでは人魚伝説については、詳しく書いたので、今回は河童伝説について調べてみた。
河童伝説誕生地は大潟区にある「県立大潟水と森公園」にある鵜の池が伝説の地である。時間の都合で、管理棟周りを覗いただけなので、改めて尋ねてみたいと思っている。
公園は雪で覆われているが、遊路は除雪されているから興味のある方は散策していただきたい。
上越市大潟区には人魚伝説とカッパ伝説があるということを、潟町散歩で少し触れてみたが、以前、上越市にある人魚像廻りでは人魚伝説については、詳しく書いたので、今回は河童伝説について調べてみた。
河童伝説誕生地は大潟区にある「県立大潟水と森公園」にある鵜の池が伝説の地である。時間の都合で、管理棟周りを覗いただけなので、改めて尋ねてみたいと思っている。
公園は雪で覆われているが、遊路は除雪されているから興味のある方は散策していただきたい。
その昔、潟町に宿場が開設された頃、北国街道から米山道を少し入ったところに火葬場がありました。亡くなった人々の霊をなぐさめる為、そこに6体のお地蔵さんが置かれていました。現在は場所を移し、今も「厄除地蔵さん」と親しまれ大切にされているそうです。
米山道道標。右側には米山道と。
どんど池 万治3年(1660年)潟町に開設された宿場の東端にどんどん湧き出る泉が発見された。村人はここを石で囲み、井戸に引き込んだり、桶でで運んだりして、生活に欠かせないものだったそうです。
突然目に飛び込んでくる清水を湛えたこのどんど池が、お散歩で一番の見どころでした。
画像はありませんが最後にジムアリーナという上越市体操場施設が最後の13目でした。ジムアリーナは東京オリンピックの際にはドイツ体操チームの合宿所となったそうです。
以上、「潟町おさんぽのみどころ」紹介でした。コース時間はゆっくり歩いて2〜3時間ほどでしょう。
火防地蔵尊の次は明治天皇行在所碑
明治11年に大型区にこられ、現在の田中家で休息されました。
次は市神社。明治3年に始まった市をを記念して作られました。市そのものは経済の近代化で昭和47年に幕を閉じました。
小山作之助の墓
小山作之助の墓がある西念寺
米大舟江戸時代の凶作の年に当時酒田の弁財舟が義援米を運んだことから、これを記念して祝った際の踊りや歌を米大舟として語り継いだ、米大舟発症の地碑
マンホールの蓋にも人魚!
歩き始めの美容室?看板にも、人魚
潟町駅の駐車場に車を止め(車は4、5台は止められる)、お散歩看板を確かめてぶらりと歩き出す。お散歩パンフは駅の待合室にあったので、一部いただいた。何せ、住まいから近いとは言っても初めての土地で不案内だ。
8号線を渡ると地図上ではすぐに「夏は来ぬ」の作曲家・小山作之助の碑があるらしいが、中々出てこない。しばらく行くと中学校があり、その中学校の校庭にそれらしい碑が見受けられた。なるほど、小山作之助の歌碑や銅像があった。
小山作之助の記念底園
潟町宿開駅記念碑
大潟コミュニティプラザにある小山作之助資料館
ここからは上越市を囲む山々が見られるロケーションがある
可愛いカッパ、いいね!
大潟コミュニティプラザのロビー(上の画像)と玄関にあった河童くん
火防地蔵尊
潟町をたいそう気に入って長く滞在していた巡礼がなくなりました。村人は哀れみ、街道脇に墓を建て地蔵を安置しました。文政2年(1819)潟町大火の前夜、地蔵の化身が火事を予言し、ふれ回り、村人は救われました。以来この地蔵は「火防地蔵尊」として敬われ春秋2回の祭礼があります。
全ての場所にこのような説明板があるわけではありませんが、しっかりとした銘板がありました。
瞽女ミュージュアム高田インスタグラムで、大潟区潟町散歩なる記事が目に入った。最近作成されたらしいパンフには「作之助と潟町宿」とあった。どうやら題字はミュージアムナビゲーダーで書家の渡辺裕子さんの手によるもので、その下に描かれた挿絵は「高田瞽女の保存・発信する会」の会長、濁川清夏さんの作だった。
潟町は近くて遠い。我が家から10分とかからぬ場所にあるから、ウオーキングがてら歩くことしました。
潟町駅舎
人魚伝説がある町
プラットホーム
プラットホームにはこんなものが
人魚だけでなく河童伝説もあるようだ。後ほど河童についても紹介します。
近くにある鵜池にはかっぱがいたようだ。鵜の池には河童。鵜の浜には人魚、の伝説があるようです。
行程一時間とあるから、のんびり散策をはじめよう。