赤麻遊水池から望む冨士
藤岡町(現栃木市)は赤麻遊水地に隣接する町。赤麻遊水池は首都圏の水瓶として機能する広大な遊水池。この遊水池は栃木県、埼玉県、茨城県、群馬県の4県に跨っている。かってこの村、谷中村は足尾銅山からの鉱毒を貯留するため、国が無理矢理取り上げた土地なのである。ここ赤麻が日本の公害の原点とされ、かの田中正造と村民が共闘し、国と戦った歴史が日本最大のこの遊水池に眠っている。
西高東低で強風のなか、道祖神探しで散々辛酸を舐めて学習しているから、まずは地元の資料館に足を運ぶ。しかし当の資料館での成果は私の資料と大差のないものだった。「道祖神があったなんて」という言葉が返ってきても粘りに粘って、なんとか新しい資料を見つけることができた。しかも資料館に来る前にあるブログで画像を確認していたので、資料館での画像とも一致し、意気揚々と現場に足を運んだのだが。藤岡町部屋のあちこち聞いて回るが、石仏はあるにはあるが双体道祖神を知る人はいない。見ていても指摘するほど確識できないのだろう。大字部屋を三カ所歩き回り、小字で道陸神(どうろくじん)という集落でようやく見つけることができた。
藤岡部屋八幡宮 右側に並ぶ石は力石とある
この大字部屋という地域は江戸の世では栃木市中から流れる巴波川が思川、利根川、そして江戸川と続く商船往来の大きな河岸があり、この辺りまで50俵船、思川からは200俵船と河川規模に応じて、商船が代わり、往来していたようだ。
如意輪観音 青面観音 建立時期は元禄年間(1688〜1704年) 寛政年間(1789〜1801年)
馬頭観音
路傍に
畑脇に 背後にある堤防が巴波川 その後ろにある山は大平山 堤防左端にある山は万葉集にも歌われた、三毳山
家先に 如意輪観音だろうか
十三夜塔
十九夜供養塔
道陸神を歩くと興隆の名残か、この小さな集落の辻、家先、敷地に石仏、石碑が顕著に見られ豊な時代があったことが想起される。
そして旧家とおぼしき、なまこ壁の家の前の三叉路の辻を上がると、ありました。
しっかりとした木造の祠に。この家の老婆に伺ったところ、この双体道祖神はこの家で立てたものでなくいつの間にかあったのだという。
「しかし大事にしとかんと」と話してくれました。
資料では 新波部屋(上) 碑型(打切型) 姿態(手握)碑高74cm×碑幅31cm×像高43cm)
建立年はわからないがおそらく元禄年間〜寛政年間にかけてと思われる
さて、藤岡には資料によるとあと二体あるとのことだから探してみようとおもう。