江戸の退屈御家人

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 葛西城・・うずもれた城

2013年03月01日 18時14分02秒 | Weblog

葛西城は環状7号線建設に際して発掘されたもので、地上には何ら痕跡はないが地下に中世の遺構を残していたとされる。環7と水戸街道の交差するところで、中川から数十メートルの地点。

亨徳の乱で、鎌倉公方の足利政氏がその補佐役の関東管領上杉憲忠を謀殺。これには当然背景に関東在地勢力の生存をめぐる権力闘争があった。
この結果、上杉関東管領家=京都足利幕府と鎌倉公方が全面対立。関東での応仁の乱と言われる内乱。
その結果、鎌倉に居住できなくなったので、古河公方として古河に移り、太日川(現江戸川)を挟んで、西岸が上杉グループと東岸が古河公方グループと対峙する構造が約50年続く。

その北条早雲=後北条氏が関東に侵攻して勢力を拡大。その間、太田道灌も巻き込んで上杉一族での抗争もあり北条氏対古河公方という構造になる。北条方は婚姻政策や外交政策でも徐々に古河公方に影響力を行使していく。

こういう背景下、葛西城は(もちろん中世の城だから石垣の天主などなく、堀を掘ってめぐらした足利の鑁娜寺みたい)太田道灌の配下の大石石見の守が守って、古河公方と対峙していた。その後、1524年には北条氏綱が江戸城を攻略その後葛西城を攻略。
1538年には足利公方の弟、足利義明を担ぐ勢力と房州の実力者里見氏が、江戸川東岸の国府台(律令時代の下総の国)にこもり、北条氏と対峙。古河公方は足利晴氏がその身分を守るため北条氏の援助が必要。こうして第1次国府台の戦いは公方・北条方の勝利で、北条勢力下になるとともに、古河公方家に影響を及ぼす。

その後上杉謙信の関東進出などあり、古河公方家の衰退が続き北条氏が主体となる。
詳細は政治史そのもので、簡単に表しえない。



その後、下総中山の法華経寺を訪問。日蓮法華の関東の大道場。


 でも、静岡の身延山久遠寺(高野山の山岳都市をかなり意識している)にはちょっと劣るが下総にこんな太寺があるとはね。



そしてこの中山の門前町でも、いまは雛祭りだ。


法華経寺の鬼子母神にもたくさんの お雛様を飾ってありましたよ。


  ちょっと写真技術に失敗。でも3基の雛段が並列に飾ってあった。