江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

出雲風土記の世界 その2

2013年03月19日 11時03分34秒 | Weblog







 松江市の南約4kmの所に、出雲の国造家発祥の地らしいのがある。
それは「神魂(かもす)神社」といいイザナミノミコトを祭るもので、出雲の国造家の祖先神アメノホヒ降臨の地と伝えられ、その後国造家はどういう理由かははっきりしないが(ここに、出雲族とヤマト族の抗争があったか神話の世界だ)、西方20kmの海岸沿いの杵築大社=出雲大社に移り、そこの神官となり現在に至るよし。
 神魂神社は、出雲大社そっくりの規模は小さい本殿を有し、これは国宝に指定されている。
 かもす神社一帯が、もと出雲の故地と思われ、近くに八重垣神社がある。ここはスサノオが八岐大蛇を退治する時、愛妻クシナダヒメをかくまっていた縁結びの神社。
 更に、南7kmには、平安時代初期までは出雲大社より格式が高く、出雲一の宮の座にあった熊野大社がある。
 かもす神社一帯に、「八雲立つ風土記の丘」が整備され、そこに博物館として各種展示している。とくに、出雲風土記は733年天平5年ごろの記述であり、それと、神話時代の伝承とのミッシングリングをどう考え、イメージを膨らませて行くかが、古代史のロマンだろう。
 出雲風土記には、出雲の国各郡の地名や駅名、神社名等が記されており、これら説話や国引き神話・国譲り神話、ワニ退治などが一体何年ごろのことか。国譲りには軍事衝突はなかったのか。その記録も記憶もなさそうで、不思議ではある。

 一般的には紀元前1000から500年ごろが縄文文化時代で、母系氏族社会・屈葬時代。その後紀元前500年ごろから大陸文化のの影響が入り、弥生式時代で父系氏族社会、稲作農業、伸展葬・石棺の時代。徐々に各地で、同時多発的に部族国家が誕生。

 紀元57年、倭奴国王、後漢の光武帝の印綬を受ける。
   150年ごろ、倭国に内乱
   239年、卑弥呼、266年女王壱与、晋に派遣。以後 空白断絶
   367年、百済の援軍要請、その御礼として石上神宮の七支刀
        この頃前方後円墳が盛行
   413年、倭国、晋に朝貢。その後、倭の5王の朝貢。
   527年、百済との利権をめぐり、筑紫の国造・磐井の乱
   538年、百済から仏教伝来
   562年 伽耶、新羅に滅ばさる。
   587年 蘇我氏物部守屋を滅ぼす…古代統一国家がはっきりしてくる。

出雲風土記の733年・天平のころには完全に大和王朝の地方出先機関となった出雲の国府である。

 かもす神社・出雲の故地のそばに、出雲の国国府跡が1kmほど東にある。ここには、天平奈良時代初めの出雲地方の中心部がそのまま残っている。
たとえば、国府跡前には、古代山陰道あとが推定され、1kmほど北には、国分寺と国分尼寺跡がはっきり残り、周辺は古代の条里制のあとが残っている。