今日12月4日 群馬県高崎の先、榛名山の山麓に沢山の古墳時代遺跡が残っているので、野次馬は見に行きました。
後ろは榛名山。広い地域に入植したのだろう。
前方から後円墳を見る。
多量の埴輪を土留めに使ったのか。
ここは5世紀前半、倭国大乱の後、倭の五王が南朝 宋に朝貢し、倭王讃 とか宋書にかかれ、安東将軍などの名前で 新羅、百済、高句麗の格付けと微妙に差をつけ、各国を冊封体制の中に閉じ込め、秩序を維持する。こういうやり方が歴代中国王朝である。
群馬県は大和に匹敵するぐらいの古墳国なのだ。
以下が 保渡田古墳群のうち、八幡塚古墳の復元した姿の写真である。
後ろは榛名山。広い地域に入植したのだろう。
前方から後円墳を見る。
多量の埴輪を土留めに使ったのか。
ここは5世紀前半、倭国大乱の後、倭の五王が南朝 宋に朝貢し、倭王讃 とか宋書にかかれ、安東将軍などの名前で 新羅、百済、高句麗の格付けと微妙に差をつけ、各国を冊封体制の中に閉じ込め、秩序を維持する。こういうやり方が歴代中国王朝である。
それはそれとして、日本の古墳時代に、群馬では 崇神天皇の一族の一部 多羅氏系が 榛名山の山麓に入植し灌漑設備を用いて 大きな勢力を築いたようだ。それが 短時間のうちに 急速に大和の 前方後円墳 の文化を受け入れ協調して、大きな古墳群を作った。
それがわかるのは、新幹線建設工事の最中、偶然に 5世紀の 王の館跡 が発掘されたのだ。
これには5世紀当時の農村風景がそのまま残っていた。なぜなら550年から600年ごろに榛名山が2回大爆発を起こし土石流がこの地域一帯を厚く覆っておった。これが新幹線工事で偶然2メートルの土砂の下から発見されたのである。
まさにポンペイの遺跡と同じこと。
これが日本書紀の記載とかなり一致するところから歴史的事実として見られている。
特に吾輩が改心したのは小さな村落と水田後灌漑後が明白に残っていること。現在の棚田の原型だ。これは古墳時代と言うもののイメージを決定的に変えるものである。
要は古墳時代の人達というものは 縄文時代的なイメージから大きく外れ、むしろ現代人とほぼ変わらない1500年前の人たちの生活そのものが見える。
年をとってくるとこういうのが、老人性の男のロマンと感じるのが悲しい。