1、わんこそば
吾輩は60杯で終了。男性の平均的な数量らしい。これはそばに直すと4枚分ぐらい。だから普通 食べるの2倍位である。
350年から400年ぐらい経っている江戸彼岸桜。昔の家老の屋敷に たまたま大きな岩の割れ目に桜が落ちてそのままずっと咲いていたようである。天然記念物。今は裁判所の庭にある。
こんな美しい銀行が建てられていたのだ。
吾輩は60杯で終了。男性の平均的な数量らしい。これはそばに直すと4枚分ぐらい。だから普通 食べるの2倍位である。
2、盛岡城跡公園
今桜の真っ盛り。すばらしい景観である。
盛岡城は南部信直が慶長3年1598年に築城を開始。
東北の歴史は我輩も知らなかった。この1598年という年は 太閤秀吉が 醍醐の花見を 行った年である。
1590年の小田原成敗の後 秀吉は最後の覇権確立のため 東北の奥地まで進出。戦国時代の後から東北は 南部氏 及びそのの同族があちこちで群雄所轄しており うち2番手クラスの南部信直が 秀吉に臣従しており 一方 同族の南部某が秀吉に対抗していた。そこで秀吉は全国統一の最後として 反対勢力の南部達を攻めて 60,000の兵を持って5000人で対抗する南部達を攻めて 「奥州仕置き」を行った。
この奥州仕置き は わが愛する 「日本史年表」にも載っていない。この年のメインは 醍醐の花見なのである。
いずれにせよ 仕置きの後 秀吉側に味方した南部信直とその息子 利直が 盛岡の地に築城したようだ。
ちなみに 昨日の 八戸で 室町時代から続いた 元城 もこの時 仕置きされた ため 建造物等は全て破却され その結果 土台というか地下というか目に見えない部分が長い間地下に眠っていたと言うわけである。
盛岡城は徳川の時代になってもそれなりに存続した。しかし 尊王倒幕の戊辰戦争については これも歴史年表に書いてないが 奥州列藩同盟に加担し 新政府に抵抗し攻められ 当時の家老が 責任を取って刑死。藩主は 白石に 藩替えにされ その後 明治3年 廃藩置県の時 住民の藩主帰還嘆願と 廃藩置県での差し出しと交換でか 盛岡県令となった。その後明治5年に陸軍の用地に接収され その後長い間 たって 盛岡城跡公園 となって現在に至っている。全国100名城の1つである。
3、石割桜
350年から400年ぐらい経っている江戸彼岸桜。昔の家老の屋敷に たまたま大きな岩の割れ目に桜が落ちてそのままずっと咲いていたようである。天然記念物。今は裁判所の庭にある。
4、岩手銀行赤レンガ館
こんな美しい銀行が建てられていたのだ。
5、盛岡歴史文化館。ここでいろんなものを展示している。今日からの特別展は 「南部家のたしなみ「 詠む 描く 書く」とうして 東北の大名家の文化のあとを展示していた。
東北だからこそかもしれないが 江戸の文化 京の文化 を生かし学んでいるのは驚きだ。展示品の中に歴代藩主の幼少の頃の習字の練習 があるのは素晴らしい。
今回の旅行で 日本史年表 が必ずしも日本歴史全体を抑えているものではないと言うことを発見した。
なお ここ文化館で 東日本大震災の関連の展示も行っていた。特に以下の報道写真を掲げる。
6、岩手山の勇姿