4月17日 昨日の午後の雷や雨に比べれば、今日は非常に良いお天気。でも夕方には曇ってくるとか。
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源義賢は祖父の代に源義国と別れ都幾川のこの辺りに落ち着いたようだ。ここで生まれたのがのちの木曽義仲。父義賢は甥の悪源太 義平に打たれて 義仲は家来によって木曽の一族に預けられる。その後の木曽義仲の活躍と栄耀と落下は知られるところだ。義仲の息子は鎌倉の1日となり 12歳の時、元の本拠地へ逃げる途中 殺される。この3代の墓をのちに集めたのがここのようだ。前を 鎌倉街道、上つ道の大蔵宿が通っている。だから 生活環境の良いところであったのだろう。
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鎌倉街道の左側に大蔵神社があり これは源義賢の館跡とされている。今は大蔵神社になっている。
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深いから堀り跡が残っている。前を都幾川で守り、後を深い土塁 空堀で守る立派な館跡と見た。資料館は月曜日で休み。
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与謝野晶子の歌碑。彼女は結構腰が軽くて 全国各地の有名温泉を訪ねている。13名もの、子供を作って どこからでも来い ほんとに日本の お母ちゃん という感じの女性だな。
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武蔵嵐山発祥の碑
5月の連休は混むから、その前に自分勝手に連休気分を楽しもうとする。
東武東上線沿線で旧鎌倉街道の跡が残っている。武蔵嵐山外5つの駅はどうかと。結局 畠山重忠の菅谷舘跡 木曽義仲の生まれたと言う大蔵舘跡 それに武蔵嵐山渓谷を歩こうと考えた。
池袋から 急行でウトウトしているうちに、川越を過ぎ森林公園。次に武蔵嵐山。
最近体力がないから 歩くなら どこへ行くのが最も良いか選択は難しいと考えていたが 駅の下にレンタル自転車があった。これを借りました。1000円なり。これがあればどこへでも行ける。インフォメーションで地図をもらって作戦を出る。
武蔵嵐山は、小さな人口の多くない。美しい街である。自転車でもあるにはもってこい。それで、1番に源義賢の墓を見に行きました。
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源義賢は祖父の代に源義国と別れ都幾川のこの辺りに落ち着いたようだ。ここで生まれたのがのちの木曽義仲。父義賢は甥の悪源太 義平に打たれて 義仲は家来によって木曽の一族に預けられる。その後の木曽義仲の活躍と栄耀と落下は知られるところだ。義仲の息子は鎌倉の1日となり 12歳の時、元の本拠地へ逃げる途中 殺される。この3代の墓をのちに集めたのがここのようだ。前を 鎌倉街道、上つ道の大蔵宿が通っている。だから 生活環境の良いところであったのだろう。
おかげで 鎌倉街道を実際に 体験することができた。嬉しい。
この先に 縁切り橋があった。ここはずっと前に坂上田村麻呂が蝦夷退治に進軍をしているときに その妻が夫を追ってきた。田村麻呂は、軍事に女が来るのはけしからん ここで離縁すると 妻を返したとかの伝説がある橋。
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鎌倉街道の左側に大蔵神社があり これは源義賢の館跡とされている。今は大蔵神社になっている。
その後、木曽義仲の産湯の清水があるという鎌形八幡宮を訪問。あまり大した神社でなくまた 義仲の産湯も見当たらなかった。
次に都幾川沿いの桜並木がある素晴らしい田園風景を通りながら 畠山重忠の菅谷舘跡を見る。
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深いから堀り跡が残っている。前を都幾川で守り、後を深い土塁 空堀で守る立派な館跡と見た。資料館は月曜日で休み。
この後いよいよ 嵐山渓谷へ行く。嵐山は 本田静六博士(日比谷公園を作ったり、明治神宮の林を作った立派な人。)が 都幾川の支流 槻川の渓谷が 京都嵐山に似ているとして 武蔵嵐山と名づけ 同氏の営業力もあって 有名旅館を作って観光地にしたようだ。これが一躍有名になって ここを武蔵嵐山と名前を変えてしまったとか。確かにきれいな渓谷である。今の季節は青紅葉が溢れている。京都ならば 何とか紅葉と言うキャッチフレーズを作るであろうか。
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与謝野晶子の歌碑。彼女は結構腰が軽くて 全国各地の有名温泉を訪ねている。13名もの、子供を作って どこからでも来い ほんとに日本の お母ちゃん という感じの女性だな。
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武蔵嵐山発祥の碑
連休前の良いお天気の遠足はいいもんだ。