狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

警察本部

2024-06-21 11:25:45 | 政治

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筆者の前の光景は、砂塵と軍用貨物車が黄色い誇りを巻き散らして、往来していた。

砂塵は、強い風によって粒子は上空高く移動するので視界は数十メートルしかなかった。

日時は定かではないが、敗戦直後には間違いない。ということは沖縄の直射日光が激しく周囲を焼き尽くしていた。 沖縄の真夏の事だ。

あとで聞いたことによると、父は台湾の台北で敗戦を迎え、父の生まれ故郷福岡の八女市に引き上げる途中、那覇に立ち寄った時の出来事である。父は台北で台湾人江崎洋行という名の商売をしていた。

さて、当時筆者は那覇の、どの地域にいたのか。

上記地図を見ると国際通りと国道58号線が交差し、直進すると現在の那覇高校通りに突き当たり、左折すると那覇高校に至る。

台北で商売をしていた関係上、父は情報面に勝れていた。そのため大陸(満州)で中国人の使用人が、敗戦と同時に踵を返しこれま勤務していた店の商品などを略奪しはじめた情報を知っていた。 中には暴力沙汰や殺人に至る場合もあったという。

集団自決と言えば沖縄の専売特許に思われがちだが、本土から満州開拓に行った日本人の中にも、敗戦後中国人の乱暴狼藉に遭遇し、集団自決を行った満州開拓民も多くいた。

いち早く満州での情報を得た父は、台湾人も大陸系中国人のようにこれまでの使用人に乱暴狼藉が及ぶのをおそれた。

そして当時3、4歳の筆者一人を台湾での知人に託して、父母は台湾での身辺整理をした後、与那国、石垣島と島伝いに脱出し、沖縄本島で合流する予定であった。ちなみに石垣島までは小型漁船で、石垣島から沖縄本島までは、米国の軍用貨物船(LST)の貨物用地下甲板で移動した。戦車揚陸艦は、擱座着岸(ビーチング)機能を有する揚陸艦の艦種。アメリカ海軍の分類記号としてはLST(Landing ship, tank)が当てられる。

筆者は石垣島では米国貨物船の到着を待つ間、学校は長期欠席で、お陰で筆者の通信簿は全欠席である。

話しは沖縄本島の現在地に戻る。

石垣島で沖縄本島行の米国貨物艇(LST)の日程を調整し、一路福岡の八女市に向かったのだが、ここで思わぬ事件(事故)に遭遇する。

これも後程知ったのだが、父は闇船により密かに故郷の八女市を訪問し「住む家も、食うための農地も準備してある。直ぐ帰ってくるように」という旨の連絡を受けていた。そこで石垣島でLSTに乗船するのだが、米軍統治下の当時は沖縄本島の軍港がある勝連村のホワイトビーチで、一旦LSTを乗り換えて次の便を待つという予定だった。ホワイトビーチは海沿いにあるので、急こう配の坂道を待機していた数台の米軍貨物車が住民の目的地別に分乗して送ってくれる予定だった。

筆者の家族は初めての沖縄本島上陸のため、取りあえず人が多く集まる那覇への輸送を依頼した。ちなみにLSTで避難民の世話をしてくれた米兵は偶然にもせ部て白人であった。(赤ら顔の大男、これが筆者のアメリカ兵に対する印象はで、アメリカ兵に生まれた初めて水洗トイレの使用法を推しえてもらった)

ところが筆者と父親分乗した軍用トラックと母や知人が分乗していた軍輸トラックが道を間違えてしまい、「ここは那覇ですよ。後は自分で探してして下さい」と言って、件の米兵は何処ともなく去っていった。

際再三話が不利だしに戻るが、筆者の現在地は、上記地図の国際通りから県庁前を左折して数十メートと進んだところ。

真夏の砂塵で舞い上が視界は、約数十メートルで、目前の米軍のかまぼこ型(コンセット)兵舎と道路を隔てる柵は形だけの鉄条網が一本張り巡らせてあるだけ。したがって筆者の立ち位置から米軍兵舎に立ち入ろうと思えば容易に鉄条網を潜り抜けることが出来た。

勿論冒頭に紹介したように筆者の現在地と警察本部の間には建物が重なって視野をを塞いでおり、はるか遠くに警察本部の建物が蜃気楼のように霞んで見えた。

その時である。

先ほどから目先の道路を砂塵まき散らして行き来していた米軍車車両の一台が「キキキー!」と急ブレイの音を響かして筆者の目前にで、急停止したのだ。

当初は民間人の立ち入り禁止区域に民間人が荷物を積んでいるので、立ち退きを命じられているものと思った。

ところが、運転席から身を乗り出して何か早口でまくしたてている「怪物(ごめんなさい)」

筆者の米国人に対する予備知識は、黒人という存在が全くなかった。

真夏の直射日光で目の感度が運転席の暗闇に馴れた筆者の眼前に上記のような目と歯だけが真っ白の「怪物」(ごめんなさい)がヌウと顔を出したのである。

勿論今では、その時の無名の米軍兵士にその時の心情を問い合わすことはできない。

そして現在ではボビーオロゴンのような黒人も見慣れてきたが、敗戦直前の警察本部の前で初めて黒人の姿を見た筆者は、すべてを放置してその場を逃げようとすら考えた。

ところがその時、家族を探しに那覇の牧志界隈に出かけていた父の言葉が天命のように胸を過った。

「この場所を一歩も離れてはいけない。離れたら二重迷子になる」

結局、米軍兵士の必死の説得に「大丈夫。OK」という合図を送り、米軍兵士は納得し、安心して仕事を続行した。

これの跡で聞いた名無しだが、そのとき黒人の米兵士は携帯用のバッグから飲み物のようなものを差し出した。勿論筆者は断ったが・・・。

度たびあ後で聞いた話の連続で、恐縮するが当時の筆者の年齢から言ってそのP点ご容赦頂きたい。

当時の米国兵は見知らぬ土地で体に合わない水を飲むより、携帯したコカ・コーラを飲む準備をしていたという。

 

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