快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

自然災害 仕組みとアプローチ -  直虎の井伊氏と日蓮 そして桶狭間の戦い

2017-01-29 22:13:11 | 地震 津波
 直虎の井伊氏の家紋と日蓮宗の寺紋が同じとの事で調べてみました。

引用開始(一部抜粋)

http://www.hokkeshu.com/event/dic_si_shuuso.html

 丹羽基二著「家紋大図鑑」によれば、橘を用いているものもかなりあるがとして、  井伊氏伝には「祖・共保は井中よりあらわれた化人である。井戸より現れると きは井桁にタチバナの実一つあったのでこれを記念とし、家紋とし、井桁を幕 紋にした」という(寛永諸家系図伝)。日蓮宗の寺院でも「井桁にタチバナ」 を用いているが、祖師日蓮がやはり井伊氏と同じく藤原氏良門流だからである。 とあり、貫名家が井桁に橘の紋を用いていたとしている。

引用終了

 井伊氏も貫名氏も藤原良門の子孫との事でした。
 それではきっと南渓瑞聞(南渓和尚)も日蓮宗なのだろうと念の為調べるとそうではなく、臨済宗なのでした。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B8%93%E7%91%9E%E8%81%9E
南渓瑞聞
南渓 瑞聞(なんけい ずいもん、生年不詳 - 天正17年9月28日(1589年11月6日))は、戦国時代の僧侶。臨済宗龍潭寺二世住職で、南渓和尚とも呼ばれる。今川義元の葬儀を取り仕切る安骨大導師なども務めた。井伊家出身で、女性の井伊直虎を同家当主に推薦した[1]ことから、当主不在時に井伊家を率いていた可能性が高い。

引用終了

 それでは何故わざわざ臨済宗だったのか?と言う事で更に調べると、

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97
臨済宗
歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。

引用終了

 なるほど、つまり室町幕府と結び付きが強かった宗派に属していた方が、確かに今川方から命は狙われにくいと筆者は思います。
 井伊直虎をトップに立てながら自分は実は表には出ず、しかし実際には影で中核となり井伊家を支えたのは実は南渓和尚だったのではないでしょうか。
 もしそうだとすると要所要所で影武者を使ってピンチを切り抜ける家康と何処か似てますね。
 野戦の戦場ではどんなアクシデント、特に自然災害が発生するかわからない。
 だから影武者を使って万が一に備える。
 それを身を持って思い知ったのはあの桶狭間の戦いです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A
桶狭間の戦い
(中略)
13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。今川軍の総勢は2万人であったとされるが、義元を守る兵力は5,000から6,000人に過ぎずに、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。
(中略)
織田信長の桶狭間の戦いでの勝因を、「民家への略奪行為で油断する今川方を急襲したから」とする説を、黒田日出男東京大学名誉教授が唱えている。勝因について、明治時代には陸軍を中心に迂回奇襲説が、近年では『信長公記』に基づいて正面攻撃説が主流である。だが、黒田は『甲陽軍鑑』に着目し、「記憶違いはあるが、悪意の捏造はなく、体験に基づく良質な史料」と断定した。そして、当時武田氏と今川氏は同盟していたため「敗因を間違えるとは考え難く、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とした。『甲陽軍鑑』には「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあり、また別の史料で徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認した。黒田は略奪を"乱取り"と呼び、新説を「乱取り状態急襲説」と名付けた。
 
引用終了

 例え同じ状況でも今川義元が影武者を使ってニセ本陣を演出していたら討ち死にする事はなかった、と筆者は考えています。
 
 当時の状況は大体次のような感じではないでしょうか。
 今川軍は丸根砦、鷲津砦の攻略に成功し、ほぼ勝利を確信していた。
 そこで疲労と空腹も有り、兵力は分散したままか、或いは更に分散して「乱取り」を開始し、食事と休憩を始めた。
 そこへ雹と雨が強く降り、雨宿り、或いは民家などの中で休憩した。
 圧倒的に有利な状況で油断しており、更に雹と雨では戦も無いだろうと考えるのが普通かと思われます。
 そこへ信長の織田軍が移動速度を速めて今川本陣に接近。
 見張りの兵は建物の中か、雨宿りで腹ごしらえでお休み中、或いはそうでなくても雹と雨で見通しは悪く、移動の音や気配はかき消されて鳥の羽ばたきも見えず、殆ど織田軍の急接近に気がつかなかった。
 そして仮に気がついても雹と雨で狼煙による合図は送れず、ホラ貝(?)太鼓(?)などの大音響を出すものも雹と雨の音などで掻き消された。
 そして雨と雹が止む頃にはもう織田方の急襲部隊は今川義元がいる本陣のすぐ近くにあり、更に田んぼは元々足を取られる泥状態で、本陣から離れた周囲の今川方の部隊は本陣に集結できないうちに今川義元は討ち取られてしまった。
 
 大体こんな状況ではなかったかと筆者は考えています。
 信長が「狙うは今川義元の首一つ」と言ったのは、本陣にいるのが義元の影武者ではなくホンモノと確信していたからでしょう。
 急襲したのがもし影武者のいるニセ本陣だったら、今川方の圧倒的な兵力にやがて囲まれる自殺行為だった事は間違い有りません。
 「梅雨将軍」と言われる程に雨天を利用した戦闘での勝利が多かった信長は自然災害を上手く利用した武将でした。

引用開始(一部抜粋)

http://www.shinchosha.co.jp/book/112219/

信長が飛躍するのはいつも雨の時季だった。「歴史」を見る目を変える異色歴史小説。全9編。

引用終了

 そして家康はこうした自然災害と言うアクシデントで戦況が左右される事を目の当たりにして、特に野戦で影武者を多用したのでしょう。