本能寺の変の直前の状況は大体次の通りです。
中国地方の毛利氏総攻撃準備とその報酬として明智光秀の出雲石見(石見銀全だけで100万石相当、それ以外の農林水産物や海上、陸上交通利権も含めれば百数十万石相当、エンジンの無い当時の海上交通は日本海側や瀬戸内海でないと危険でした)への国替え(但し切り取り次第)と四国の長宗我部氏攻め準備とその報酬として秀吉の縁戚となっていた三好氏への加増、この両方の同時作戦で家臣競わせて織田家に利益となるようにしたのだろうと考えています。
それは有る点では有効ですが、追い詰められた家臣がそれこそ主君を討ってでも自己保身を謀ろうとするケースも有るわけで、四国の長宗我部氏を総攻撃する為に織田信孝、丹羽長秀らの大部隊が京都を離れた時を狙って信長は襲撃されたのでした。
では信長を最初に襲撃したのは果たして明智光秀だったのか?それとも秀吉やイエズス会や公家衆、毛利氏などの手先だったのか?となるとそれは後者の方の可能性が高いと個人的には考えていますが、いずれにしても一度信長を襲撃した事実が発生してしまえば明智勢はもう逃げ場は無くなり、信忠襲撃や反織田政権で突っ走るしか無くなったと思えます。
秀吉は光秀の足を引っ張ろうと四国の長宗我部氏の反抗的姿勢を煽り、光秀は「石見銀山を攻略しようとせずに何故か瀬戸内海側に進軍してわけのわからない備中高松城の水攻めなどと言う時間潰しのような事をしている秀吉が毛利氏に抱き込まれているのではないか?」と信長に進言していたのではないかと思われ、だからこそ信長は光秀に出雲石見と言う宝の山を与えようとしたのではないでしょうか。
そしてそれは秀吉の知る所となり、毛利氏総攻撃の前に明智製を装って信長を討ってしまおうと考えたのが本能寺の変に突入した流れと見ています。
光秀が山崎の戦いで短期大敗北をするまでの過程を分析すると、とても周到な計画で本能寺の変を起こしたとは思えない事は以前の記事で書いた通りです。
中国地方の毛利氏総攻撃準備とその報酬として明智光秀の出雲石見(石見銀全だけで100万石相当、それ以外の農林水産物や海上、陸上交通利権も含めれば百数十万石相当、エンジンの無い当時の海上交通は日本海側や瀬戸内海でないと危険でした)への国替え(但し切り取り次第)と四国の長宗我部氏攻め準備とその報酬として秀吉の縁戚となっていた三好氏への加増、この両方の同時作戦で家臣競わせて織田家に利益となるようにしたのだろうと考えています。
それは有る点では有効ですが、追い詰められた家臣がそれこそ主君を討ってでも自己保身を謀ろうとするケースも有るわけで、四国の長宗我部氏を総攻撃する為に織田信孝、丹羽長秀らの大部隊が京都を離れた時を狙って信長は襲撃されたのでした。
では信長を最初に襲撃したのは果たして明智光秀だったのか?それとも秀吉やイエズス会や公家衆、毛利氏などの手先だったのか?となるとそれは後者の方の可能性が高いと個人的には考えていますが、いずれにしても一度信長を襲撃した事実が発生してしまえば明智勢はもう逃げ場は無くなり、信忠襲撃や反織田政権で突っ走るしか無くなったと思えます。
秀吉は光秀の足を引っ張ろうと四国の長宗我部氏の反抗的姿勢を煽り、光秀は「石見銀山を攻略しようとせずに何故か瀬戸内海側に進軍してわけのわからない備中高松城の水攻めなどと言う時間潰しのような事をしている秀吉が毛利氏に抱き込まれているのではないか?」と信長に進言していたのではないかと思われ、だからこそ信長は光秀に出雲石見と言う宝の山を与えようとしたのではないでしょうか。
そしてそれは秀吉の知る所となり、毛利氏総攻撃の前に明智製を装って信長を討ってしまおうと考えたのが本能寺の変に突入した流れと見ています。
光秀が山崎の戦いで短期大敗北をするまでの過程を分析すると、とても周到な計画で本能寺の変を起こしたとは思えない事は以前の記事で書いた通りです。