前回記事で書いた中で、5月27日に信長が斉藤利三へ切腹命令を下したと言われている事と、一方で長宗我部討伐を見合わせた可能性が有ると言うのは矛盾していないか?とすぐに思えるかも知れません。
私自身もこの点がどうも良くわからなかったので、今まで論理展開を記事にできなかったのです。
長宗我部元親から斉藤利三へ送られた信長に恭順する書状がもしかしたら信長へ届いていなかった可能性と言うのは確かに可能性としてゼロでは有りません。
或いは恭順の意向が信長に伝わったのに信長の怒りは収まらず、長宗我部征伐を中止しようとしなかったと考えられなくもなく、それで斉藤利三が信長を襲撃した、と言う通説に辿り着くわけです。
しかし仮に長宗我部氏の信長に恭順する意向が斉藤利三経由で伝わらなかったとしても、万が一の事を想定し別ルートで信長に書状が送られていた可能性も有るのではないでしょうか。
そして仮に長宗我部氏の信長に恭順する意向が信長に伝わり、かつ信長が斉藤利三へ切腹命令を周囲がわかるように下した、と言う事は過去に信長が行ったトリックから見れば別に異質な事ではなかった、と思える材料が実は有りました。
その材料とは何か?と言うと例えば「常山紀談」に書かれているのですが、長篠の戦いの時に、軍議に於いて酒井忠次が夜襲をする案を出した所、信長から一蹴され軍議では没になった後、信長は酒井忠次を呼び出して「実は先程の叱責は間者、つまり武田方の内通者に情報漏洩させないための演技であった、夜襲案は良いのですぐに実行せよ」と言う旨の事を密かに伝え、そしてその夜襲は成功し大きな戦果をあげたとの話が有ります。
また桶狭間の戦いの時も軍議では「今日は何もせぬ」と言ったのとは裏腹にその直後に城を出て次第に兵を増やすいつもの手段で戦いに臨み、そして今川勢に大勝しました。
どうも信長はこれから実際に採る戦法とは反対の事を誰でもわかるように見せかけ、そしてその後に周囲に見せかけた事とは反対の事を急に始めて戦いで勝利すると言うテクニックを持っていたようです。
このパターンで考えると、こうなります。
長宗我部元親から斉藤利三へ送られた信長に恭順する書状、或いは恭順する意向は信長に届いていた為、信長は長宗我部討伐は少なくとも毛利討伐が完了するまで行わないか、或いは長宗我部氏の恭順の意向に妥協する。
そもそも四国には石見銀山や甲斐のような金山も無いので無理をする必要はない。
そして堺の商人らも織田勢の陸上からの部隊が堺に来る事を好んでいないようだったので尚更この時点で四国へ行くのは止めた方が得策である。
そして四国へ向かう部隊は毛利攻めに一部配分し兵力増強する。
そして残りは上杉攻めか毛利攻めの後詰めが必要になった時の為にとっておく。
その作戦はやがて知られてもかまわないが、少なくともすぐには知られない方が良い。
ならば長宗我部氏との繋がりの有る斉藤利三には表向きだけは切腹命令を出し、実際には捕らえて処刑などはせず、長宗我部氏との交渉役に後々あたらせる。
この後はもしかしたら、と言う程度で確かでは有りませんが、明智光秀や斉藤利三を堺に行かせて長宗我部氏への攻撃中止を伝えるとそれは周囲にわかってしまうので、とりあえず家康に行かせて信長の意向を伝える。
大体上記のようなロジックなら全て辻褄が合って来ます。
ただ信長の本当の意向が果たして斉藤利三へ伝わっていたのかどうか?と言うのは判りません。
これらを前提とすると、本能寺の変については次の二つの事象が浮かび上がって来ます。
一つのケースは信長がこれから斉藤利三へ本当の意向を伝えようとしていたらその前に斉藤利三が追い詰められて信長を襲撃してしまった、と言うもの。
もう一つのケースは斉藤利三には長宗我部氏と妥協すると言う信長の本当の意向が伝わっていたものの、多くの人には斉藤利三に切腹命令が出されていた事が知られていて、中にはそれを悪用して斉藤利三に成りすまして信長を襲撃してしまい、出陣式に向かっていた斉藤利三を含む明智勢は選択肢が無くなって信忠襲撃、山崎の戦いへと突き進んで行くしかなくなった、有る意味で冤罪に近いものだった、と言うものです。
果たして真相はどうだったのでしょうか。
私自身もこの点がどうも良くわからなかったので、今まで論理展開を記事にできなかったのです。
長宗我部元親から斉藤利三へ送られた信長に恭順する書状がもしかしたら信長へ届いていなかった可能性と言うのは確かに可能性としてゼロでは有りません。
或いは恭順の意向が信長に伝わったのに信長の怒りは収まらず、長宗我部征伐を中止しようとしなかったと考えられなくもなく、それで斉藤利三が信長を襲撃した、と言う通説に辿り着くわけです。
しかし仮に長宗我部氏の信長に恭順する意向が斉藤利三経由で伝わらなかったとしても、万が一の事を想定し別ルートで信長に書状が送られていた可能性も有るのではないでしょうか。
そして仮に長宗我部氏の信長に恭順する意向が信長に伝わり、かつ信長が斉藤利三へ切腹命令を周囲がわかるように下した、と言う事は過去に信長が行ったトリックから見れば別に異質な事ではなかった、と思える材料が実は有りました。
その材料とは何か?と言うと例えば「常山紀談」に書かれているのですが、長篠の戦いの時に、軍議に於いて酒井忠次が夜襲をする案を出した所、信長から一蹴され軍議では没になった後、信長は酒井忠次を呼び出して「実は先程の叱責は間者、つまり武田方の内通者に情報漏洩させないための演技であった、夜襲案は良いのですぐに実行せよ」と言う旨の事を密かに伝え、そしてその夜襲は成功し大きな戦果をあげたとの話が有ります。
また桶狭間の戦いの時も軍議では「今日は何もせぬ」と言ったのとは裏腹にその直後に城を出て次第に兵を増やすいつもの手段で戦いに臨み、そして今川勢に大勝しました。
どうも信長はこれから実際に採る戦法とは反対の事を誰でもわかるように見せかけ、そしてその後に周囲に見せかけた事とは反対の事を急に始めて戦いで勝利すると言うテクニックを持っていたようです。
このパターンで考えると、こうなります。
長宗我部元親から斉藤利三へ送られた信長に恭順する書状、或いは恭順する意向は信長に届いていた為、信長は長宗我部討伐は少なくとも毛利討伐が完了するまで行わないか、或いは長宗我部氏の恭順の意向に妥協する。
そもそも四国には石見銀山や甲斐のような金山も無いので無理をする必要はない。
そして堺の商人らも織田勢の陸上からの部隊が堺に来る事を好んでいないようだったので尚更この時点で四国へ行くのは止めた方が得策である。
そして四国へ向かう部隊は毛利攻めに一部配分し兵力増強する。
そして残りは上杉攻めか毛利攻めの後詰めが必要になった時の為にとっておく。
その作戦はやがて知られてもかまわないが、少なくともすぐには知られない方が良い。
ならば長宗我部氏との繋がりの有る斉藤利三には表向きだけは切腹命令を出し、実際には捕らえて処刑などはせず、長宗我部氏との交渉役に後々あたらせる。
この後はもしかしたら、と言う程度で確かでは有りませんが、明智光秀や斉藤利三を堺に行かせて長宗我部氏への攻撃中止を伝えるとそれは周囲にわかってしまうので、とりあえず家康に行かせて信長の意向を伝える。
大体上記のようなロジックなら全て辻褄が合って来ます。
ただ信長の本当の意向が果たして斉藤利三へ伝わっていたのかどうか?と言うのは判りません。
これらを前提とすると、本能寺の変については次の二つの事象が浮かび上がって来ます。
一つのケースは信長がこれから斉藤利三へ本当の意向を伝えようとしていたらその前に斉藤利三が追い詰められて信長を襲撃してしまった、と言うもの。
もう一つのケースは斉藤利三には長宗我部氏と妥協すると言う信長の本当の意向が伝わっていたものの、多くの人には斉藤利三に切腹命令が出されていた事が知られていて、中にはそれを悪用して斉藤利三に成りすまして信長を襲撃してしまい、出陣式に向かっていた斉藤利三を含む明智勢は選択肢が無くなって信忠襲撃、山崎の戦いへと突き進んで行くしかなくなった、有る意味で冤罪に近いものだった、と言うものです。
果たして真相はどうだったのでしょうか。