快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -   伊豆半島東方沖でMj4.1の地震発生 震源の位置は殆んど伊豆東部火山群(手石海丘)そのもの

2019-06-25 21:10:07 | 地震 津波
 先日は伊豆半島東方沖で有感地震が二度有りました。
 先月26日にも同じ場所でMj2.7の地震が有りましたが次の通りです。
                        Mj  最大震度 
 2019年6月24日 22時25分ごろ 伊豆半島東方沖 2.3 2
 2019年6月24日 19時22分ごろ 伊豆半島東方沖 4.1 4
 2019年5月26日 0時29分ごろ 伊豆半島東方沖 2.7 2

 これらはいずれも震源の位置が北緯35.0度/東経139.1度、深さ10km と言う事で同じです。
 伊豆半島東方沖の地震は結構多いのでこの程度なら特に珍しくもないのですが、今回敢えて記事にしたのはこの3回の地震共、震源の位置が殆んどあの伊豆東部火山群(手石海丘)の位置そのものだからです。

引用開始(一部抜粋)

https://www1.kaiho.mlit.go.jp/GIJUTSUKOKUSAI/kaiikiDB/kaiyo5-2.htm

伊豆東部火山群(手石海丘)
概位 35°00'N 139°08'E 海図 W1078 海の基本図 63621
伊豆半島東部地域に密集する玄武岩~デイサイト質の多数の砕屑丘,溶岩流,溶岩円頂丘などと,その東方海域に密集する多数の海底火山からなる火山群.伊豆半島東方海域では,過去度々群発地震が発生し,1989年には群発地震,微動とともに伊東市沖の手石海丘(34°59.6'N,139°07.8'E)で海底火山噴火があった.これは,伊豆東部火山群として有史以来初めての噴火である. 水路部測量船「拓洋」による手石海丘の噴火の観測では,水柱が断続的に上がり,その高さは最大で海面から113mに達した. 手石海丘は,この噴火で誕生した新しい火山で,直径450m,高さ約10m,最浅地点の水深81m,火口の直径約200m,火口の最深水深122mのマールである.

引用終了

 先月から同じ位置で3回の地震と言うのは少し気になります。
 今後どうなるでしょうか。

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 浮かび上がって来るのは秀吉と毛利氏の共生関係

2019-06-25 07:14:21 | 明智光秀
 秀吉と毛利氏の癒着関係の可能性については以前から何度か記事にして来ました。
 自然界に於いて多くの生物には共生関係というものが有りますが、山崎の戦い前後当時の状況では秀吉と毛利氏には共生関係が存在していたと考えられる事があります。
 それは次のようなものです。

 本能寺の変の後に毛利氏が足利義昭を上洛させ(勝手に鞆を脱出したと言えば良い)明智勢に合流させた場合、明智勢や旧室町幕府奉公衆の勢力には大義名分が出来、それで信長を討ったとされたとしても正当化できるわけで、明智方に加勢する諸武将も多くなって来るはずです。
 秀吉にとってこれほどの恐怖はないはずで、中国おお返しをしたのは既に毛利氏と「足利義昭を上洛させない」と言う確約が有ったからとしか考えられません。
 そして毛利氏は反信長勢力が勝手に足利義昭を連れ出して上洛させるような事がないよう、かなりの監視と警戒、守備体制を敷いていたはずです。
 何者かが勝手に足利義昭を連れ出して上洛させ、信長打倒に利用し、そして正体を隠す為にそれを毛利氏がやったかのように見せかけると言った事をしないとは限らないからです。
 当然、秀吉も足利義昭の家臣については有る程度の割合を自分の手先にしていたはずです。
 一方の毛利氏ですが、織田勢は未だ信孝、信雄らが生き残っていて、しかも織田方軍勢はほぼ無傷で残っているわけですから明智方に加勢したり秀吉勢を攻撃したりして織田勢に牙をむくと後からの報復が怖かったはずと考えています。
 足利義昭を上洛させ明智方に合流させるのは簡単にできるのですが、やはりそれは毛利氏がやった事になる為、織田勢を攻撃する事になりリスクが高い。
 ならば秀吉の黒幕となって裏で支援し織田家の跡継ぎや織田方の秀吉以外の重臣、織田方の緒武将の上に立つ方が、確実でリスクは低い、と考えたはずです。
 ここに両者の共生関係が成立したのだと見ています。
 そして本能寺の変発生直後に明智光秀が真っ先にしたはずの事とは、毛利氏への支援要請(足利義昭を上洛させる事、秀吉の軍勢を釘付けにする事)だったと思われます。
 そして毛利氏は明智方ではなく秀吉を選んだのでした。
 毛利氏が明智光秀からの要請に対し、調子の良い返事をしてハシゴを外したのか、それとも無回答だったのか、真相は判りません。
 ただ毛利氏へ本能寺の変の情報と光秀からの支援要請の書状が届いた後でも、毛利氏が返事をしたのだと仮定すればの話ですが6月10日頃までにはその返事が光秀に届いたはずだと考えらます。
 そして確実に秀吉に勝たせるにはやはり光秀に調子の良い返事をしておいてハシゴを外した方が確実だったのは明らかですが、一方では万が一ですが明智方が勝利した場合のリスクも有ります。
 山崎の戦いで旧室町幕府奉公衆の武将の多くが明智方として戦死したのは、果たして毛利氏から明智勢支援の調子の良い返事が有ったからなのか? それとも返事が来なかったので明智光秀は「室町幕府再興」を看板にして、さもあたかも足利義昭が上洛して室町幕府再興するような確約ができているように見せかけるしか無かったからなのか?
 果たしてどちらだったのでしょう。