快気分析

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仕組みとアプローチ -  金沢地震(1799年)をどう考えるか

2024-01-19 23:52:06 | 火山 地震 津波 
 今年の能登半島地震は激震だったわけですが、隣接域と言える金沢市とその周辺の大地震については次のような史実が有ります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#18%E4%B8%96%E7%B4%80

5月21日(寛政4年4月1日) 島原大変肥後迷惑 - 長崎県島原半島で雲仙普賢岳の噴火が起こり、眉山の山体崩壊による対岸の肥後国(熊本県)大津波。M6.4±0.2、死者約15,000人。
6月13日(寛政4年4月24日)後志地震 - 北海道後志神威岬沖合で地震。M≒7.1又はM7.3[123]。小樽から積丹(しゃこたん)岬にかけての地域で揺れを感じ、津波が発生したとされている[124]。日付を5月24日とする文献もある(『北海道史』)。
1793年
2月8日(寛政4年12月28日) 西津軽地震(鯵ヶ沢地震) - M6.9 - 7.1。西津軽・鰺ヶ沢で強震、津軽山地西縁断層帯が震源で、地震発生よりも前に海水が引く前兆現象があった。津波による死者3人。
2月17日(寛政5年1月7日) 寛政地震(連動型宮城県沖地震) - M8.0 - 8.4、死者100人程度、陸中から常陸にかけて津波。
1799年6月29日(寛政11年5月26日) 金沢地震 - M6.0±1⁄4又はM6.7[123]。金沢などで地震。死者640人、その他の地域でも死傷者あり。
19世紀前半
1801年5月27日(享和元年4月15日) 上総地震 - 久留里城が破損。
1802年12月9日(享和2年11月15日) 佐渡小木地震 - M6.5 - 7.0、死者37人。
1804年7月10日(文化元年6月4日) 象潟地震 - M7.0±0.1、死者500から550人。象潟で2mの地盤隆起と3から4mの津波。
1808年12月4日(文化5年10月17日) 紀伊半島沖で地震 - M7.6、深夜に2度の強い揺れ。紀伊半島から四国にかけて弱い津波。2004年の地震に類似[125][126]。
1810年9月25日(文化7年8月27日) 男鹿半島で地震 - M6.5±1⁄4、死者60人

引用終了

 この時も東日本大震災と同様でやはり少し前にあたる1793年に寛政地震(連動型宮城県沖地震) - M8.0 - 8.4が発生しています。
 ただこの金沢地震が発生した前後数年で能登半島地震が発生していません。
 そして約9年後にあたる1802年に佐渡小木地震が発生。
 つまり能登半島の両端に該当する金沢と佐渡での大地震と言うわけで、何でその中間にあたる能登半島で大地震が発生しなかったのか?と言うと、それは1729年に発生した能登・佐渡地震により既にストレスが有る程度は解消されていた為、と言う事なのかも知れませんがそれは定かではありません。
 仮にこのパターンが繰り返されるのだとすればですが、金沢市周辺では今後数十年は大地震が発生しない、となるのでしょうがそれは当時の地下で発生していたストレス等の条件と全く同じと言う事は無いわけで、つまり金沢地震がいつどういう規模で発生するのかと言うのはわかりません。
 ただ1799年の 金沢地震がM6.0±1⁄4又はM6.7と言うようにそれ程の地震規模ではないにも関わらず、犠牲者が死者640人と多かったのは、当時の金沢市周辺が加賀前田百万石と言われたように城下町として栄え、おそらく耐震性があまり無い、しかも重たい瓦屋根の建物が軒を連ねていた為ではなかったか、と思えます。
 今回の能登半島地震についてもあの重たそうな瓦屋根が仮に軽量の金属屋根とかだったら犠牲者はかなり少なかったかも知れません。
 金沢市とか佐渡でも今なら未だ間に合う。
 備えあれば憂い無し。