過去に発生した地震については、ある程度の事は書物や断層などから辿る事ができているようです。
しかし例えば断層ですが、まだ発見されていない断層も多く、特に厚い堆積層のあるエリアでは地中深くにどのような断層があるかなど調べきれていないのが現状と思われます。
更には仮に一部の断層が確認されていたとしても、そこからの分岐断層の芽がどこでどの程度存在しているかなどは、その断層の全ての場所で連続的に調べないとわからないはずであり、実質断層の全容を把握するのは現状では無理なのかと考えています。
今度の熊本地震についても、1596年から江戸時代だけでこんな感じです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
1596年・・以下の3つは連動型地震の可能性がある。
9月1日(文禄5年閏7月9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。四国を走る中央構造線断層帯での地震と考えられている。
9月4日(文禄5年閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされている。大分県を走る別府・万年山断層帯(べっぷ・はねやま だんそうたい)での正断層型地震と考えられている。
9月5日(文禄5年閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震、文禄の大地震) - M 7 1⁄2±1⁄4、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。淡路島〜神戸〜大阪北を走る六甲・淡路島断層帯での地震と考えられている。
(中略)
1619年5月1日(元和5年3月17日) 肥後(熊本)八代で地震 - M 6.0。卯の刻と牛刻の2回の地震で旧八代城(麦島城)が倒壊、竹田城(大分県)が破損。
1625年7月21日(寛永2年6月17日) 熊本で地震 - M 5〜6、死者約50人。地震動により火薬庫爆発し、熊本城が破損。
(中略)
1705年5月24日(宝永2年閏4月2日) 阿蘇山付近で地震 - 阿蘇坊で破損多く、死者があった。岡城の石垣が破損。
(中略)
1723年12月19日(享保8年11月22日) 肥後・筑後で地震 - M 6.5、肥後で潰家400、死者2人、筑後、豊後でも潰家。
(中略)
1769年8月28日(明和6年7月28日) 日向・豊後・肥後で地震 - M 7 1⁄4±1⁄4、M 7.2[77]又はM 7.4[83]、大分城で被害多く、熊本領内でも被害有り。津波有り。
(中略)
1854年12月26日(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震 - M 7.3〜7.5。12月24日の地震の約40時間後に発生、スラブ内地震とされている。
引用終了
これ見て載ってても良いのに、と思うものがあります。
そう、薩摩半島西方沖地震です。
この地震は去年、遠く沖合いで発生した横ずれ断層型地震であり、津波は観測されず、しかもM7程度であったため陸地では最大震度 4に過ぎませんでした。
と言う事は(本当にあったかどうかはわかりませんが)江戸時代にも薩摩半島西方沖地震は実はあったのに有感地震では記録に残す程のものではないため、何の資料も、そして倒壊の後や津波の痕跡も残っていないのかも知れないと筆者は考えています。
江戸時代の熊本やその周辺の大地震の前後、特に前には薩摩半島西方沖地震はもしかしたら前兆としてあったのかどうか?と言うのは、薩摩半島西方沖地震の震源域の海底地下での断層を調べれられればわかって来るのではないでしょうか。
これがわかって来ると、熊本地震だけでなく、芸予地震、豊後地震、中国地方の地震果ては南海トラフ地震の発生との関連も或いは(100%ではなくても)「有意な差」となって来るのかどうか?というのもこれからの注目かも知れません。
しかし例えば断層ですが、まだ発見されていない断層も多く、特に厚い堆積層のあるエリアでは地中深くにどのような断層があるかなど調べきれていないのが現状と思われます。
更には仮に一部の断層が確認されていたとしても、そこからの分岐断層の芽がどこでどの程度存在しているかなどは、その断層の全ての場所で連続的に調べないとわからないはずであり、実質断層の全容を把握するのは現状では無理なのかと考えています。
今度の熊本地震についても、1596年から江戸時代だけでこんな感じです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
1596年・・以下の3つは連動型地震の可能性がある。
9月1日(文禄5年閏7月9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)- M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。四国を走る中央構造線断層帯での地震と考えられている。
9月4日(文禄5年閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震) - M 7.0〜7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされている。大分県を走る別府・万年山断層帯(べっぷ・はねやま だんそうたい)での正断層型地震と考えられている。
9月5日(文禄5年閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震、文禄の大地震) - M 7 1⁄2±1⁄4、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。淡路島〜神戸〜大阪北を走る六甲・淡路島断層帯での地震と考えられている。
(中略)
1619年5月1日(元和5年3月17日) 肥後(熊本)八代で地震 - M 6.0。卯の刻と牛刻の2回の地震で旧八代城(麦島城)が倒壊、竹田城(大分県)が破損。
1625年7月21日(寛永2年6月17日) 熊本で地震 - M 5〜6、死者約50人。地震動により火薬庫爆発し、熊本城が破損。
(中略)
1705年5月24日(宝永2年閏4月2日) 阿蘇山付近で地震 - 阿蘇坊で破損多く、死者があった。岡城の石垣が破損。
(中略)
1723年12月19日(享保8年11月22日) 肥後・筑後で地震 - M 6.5、肥後で潰家400、死者2人、筑後、豊後でも潰家。
(中略)
1769年8月28日(明和6年7月28日) 日向・豊後・肥後で地震 - M 7 1⁄4±1⁄4、M 7.2[77]又はM 7.4[83]、大分城で被害多く、熊本領内でも被害有り。津波有り。
(中略)
1854年12月26日(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震 - M 7.3〜7.5。12月24日の地震の約40時間後に発生、スラブ内地震とされている。
引用終了
これ見て載ってても良いのに、と思うものがあります。
そう、薩摩半島西方沖地震です。
この地震は去年、遠く沖合いで発生した横ずれ断層型地震であり、津波は観測されず、しかもM7程度であったため陸地では最大震度 4に過ぎませんでした。
と言う事は(本当にあったかどうかはわかりませんが)江戸時代にも薩摩半島西方沖地震は実はあったのに有感地震では記録に残す程のものではないため、何の資料も、そして倒壊の後や津波の痕跡も残っていないのかも知れないと筆者は考えています。
江戸時代の熊本やその周辺の大地震の前後、特に前には薩摩半島西方沖地震はもしかしたら前兆としてあったのかどうか?と言うのは、薩摩半島西方沖地震の震源域の海底地下での断層を調べれられればわかって来るのではないでしょうか。
これがわかって来ると、熊本地震だけでなく、芸予地震、豊後地震、中国地方の地震果ては南海トラフ地震の発生との関連も或いは(100%ではなくても)「有意な差」となって来るのかどうか?というのもこれからの注目かも知れません。