この絵は、1階のアトリエに持ち込まれて、棚の上に飾られていました。
クレパスで描かれていますが、塗り残しというものが全くなく、
表面は非常にフラットに仕上がっています。
自身がクレヨンで絵を使って描いたのを思い出して見ると、
紙の凹凸によって、ザラッとした感じが出ていました。。
クレパスを何度も塗り重ね、ギューと押し付けると完璧に隙間を無くすことはできますが、
部分だけに終わっていたことを思い出します。
ある程度塗りこめていっても、今度は重い感じになったりする。
その上クレヨンは、失敗すると修正すると色が濁るのです。
そう思うと、武内はなかなかの熟練者だ。
描き方として、下書きというものをしないというのも、不思議なこと。
この絵は、街の絵だと思いますが、
ひっくり返ったこうもり傘の形と三角の縞の形は、隕石のようで、
「何にかが、降ってきてる。」と、絵の前で呟きながら、
絵の裏を見ました。
裏には、白い紙切れに「飛行する街」と書いてあった。
タイトルを知ると、ますます謎めく。
わたしとしては、「万華鏡のような街」だとぴったりくるな、と思いながら絵の前で考えていました。
だから、ブログのタイトルなわけです。
作者である武内の近況の写真があります。
↑こちら
散歩に行く一番近い公園にて。
遠くを見ています。
こういう人が、ハチャメチャな絵を描いています。
長くブログを休んでいました。
かなり重症な風邪を引いてしまい、頭はボ~としているし、
物を持てば、落とすし、無理して銀行に行くと、引き出したお金を持ち帰るのを忘れるしで、碌でなし状態。
途中でお金を持ってないことに気がついた時は、気が遠くなった。
しかし、取り忘れていたお金は、銀行が預かってくれていて、なんとかセーフ。
日本だからお金は無事返ってきたと思います。
家に帰ってから、何度こう言ったことか。
風邪を引いたからといって、する事なす事に過失がつきまとうことはないと思うのですが、
今回は、そのようなことがつきまとい、
お茶を飲もうと思って入れて、「さあ、飲もう。」と思って、湯のみを持った途端、
指に力が入っていないのか、膝の上にこぼす。
その上、精神のほうも、“嫌々病”といってもいいぐらいで、
「ご飯作るの嫌」
「買い物、行きたくない。」
「ピー(我家の猫)、わたしをこき使わないで!」
「ヒロク二さん、話かけないで。答えるのに気力使うから。」
こんな調子。
それなのに、ヒロク二さんからは、
「さほり、具合悪いからって家にばかりいてはいけない。日に当たらないとダメだ。」と言われ、
散歩に連れ出される。
わたしが、ヒロク二さんに常日頃言っていた言葉が、自分に返ってきているという・・・。
そう、散歩に連れ出していたわたしのことを、鬼とか言っていたのですが、
歩いているうちに体力がついて、身体が楽になってきたのを実感している夫は、
今、散歩が気持ちいいみたい。
無理やり連れ出され、一緒に行くと、
「さほり、色々教えてくれてありがとう。それに付いてきてくれて。」と、言ってくれる。
元気な時なら、「そうよ~!」と相槌を打つかもしれない。
しかし、「ハ~、しんど~。」と重い身体の時に限って、感謝の言葉を聞くというアンバランスさ。
内心、わたしは嫌がっているからね。
わたし達は、シーソーの関係に似ている。
なんかいつも揃わない。
この度の重度の風邪は、わたしにとって変な精神作用があり、
武内の奥様ということから気持ちは離れ、
“ただのわたし”つまり、素のわたしに近づいているようなのです。
簡単に言うと、肩書きがなくなった感じに似ているでしょうか?
役割はあるので、それはしていますが、
気持ちが白紙状態に近くなった感じで、何かをリセットしています。
ヒロク二さんは、白紙のようなわたしと今出会っているのですが、
あまり気がついていません。
家から歩いて45秒のところに、たばこや日用品、食料いろいろなものが売っているお店があり、
具材がたくさん入っている“冷凍の鍋焼きうどん“を買い、晩御飯にだしました。
「あ~、これでやれやれ。」と思っていると、
時間が経ってから、「今日の晩飯はしないの?」と言われ、吃驚!
「鍋焼きうどんを食べたでしょ?」と言うと、
「あれが、夕食?」と言い、
今度は、ヒロクニさんが吃驚。
やっと、こういう手抜きが出来たのが、非常に新鮮。
ヒロク二さんは、文句も言えず階下に下りていきました
わたしがリセット状態のせいか、いつものパターンをくり返しませんでした。
いつもだと、何故うどんは晩御飯にならないのかという理由を聞かされるハズなんです。
それがなくて、ホッとしたのでした。
その他に、子供の頃の時間を思い出すことが多く、
「元々のわたしというのは、どんなことを思い、考えていてたのか?」等と言うことを、よく考えているようです。
こういう感覚に襲われるのも、60代なんだろうか?
そのせいで、物を落としたり、お玉を鍋のヘリで叩いたりしてしまうのか?
叩いているのに気がつかなくて、ヒロク二さんから乱暴モノと注意されました。
味噌がお玉から離れなかったから、やっていたんですが、
軽蔑の眼差しで睨むのです。
そんな日常を送りながら、珍しいものを見つけました。
↑赤い実が生っていて、ベリーの木?と思っていました。
↑ベリーの木にしては、棘がない。
そして、熟れた黒っぽくなった実をちぎって食べた。
甘酸っぱい味で、ベリーのような甘さはない。
これは、調べると「桑の実」というのが分かり、初めて見た植物。
よく通る道の端に、植わっているのですよ。
このことをヒロク二さんに報告すると、
「何でも口にいれるんじゃない。」と注意を受けました。
「毒だったどうするんだ。」と。
今、わたしは、大人の分別を無くしているようです。
今日は、書く気力がたまってきたようで、ブログを描きました。
“素のわたし“とは、「自分とは何か?」という問いに似ているように思います。
まだまだ、入り口というところ。
きっと「心の旅」をするんでしょうね。
今日は、読み応えはなかったかもしれないと内心思っておりますが、
最後まで、読まれた方、
ありがとうございます。感謝!
紺色、緑系、水色のバランスが好きです。「飛行する街」「万華鏡のような街」私にはどちらもしっくりきてしまいます。鮮やかな色合いと図形が並んでいる様子は万華鏡のようだし、線路や電車や家の窓が浮くような様子は飛行だし、と思いました。
お身体はいかがでしょうか。無理は決してせずに、さほりんのペースで生活してくださいますよう、心からお願いします。今年は寒暖と湿度の日々の差が激しく、身体に負担がかかっているように感じます。銀行のお金は戻ってきて本当に良かった!
ヒロクニ先生の「家にばかりいてはいけない」に少し驚きました。ご自分が外に出たくないときや気持ちが下向きのときに、さほりんが外に誘ってくれたことを嬉しく思っていらっしゃったのかなと思いました。
鍋焼きうどんの「あれが、夕食?」を読んで、さほりんが今までとても頑張っていたことが想像できました。ごはんを調理することは、本当に大変です。
「元々のわたし」について、少しだけ持論を。持って生まれた性質性格はあるのでしょうが、ヒトは後天的な要素で現在を形成していると考えています。経験値と感じてきたことをベースに、無意識下にある「ありたい自分の形」に近づこうと常に意識し実践していると思っています。
だから、成長する年代によって「元々のわたし」は形を変えているのではないかと考えます。
桑の実!懐かしいです。小学校の授業で蚕の育成がありました。学校は丘の頂上に建っており、その敷地以外は木々がうっそうと茂っていて森でした。「桑の葉を採ってくる当番」のときに木々が茂る中に入り採取しなければなりませんでした。
桑の葉当番の役得は桑の実が食べられることでした。当番ではない子供も(先生には内緒ですが)当番にくっついて行って葉を採りながら実を食べていました。酸っぱいけれどその後にくる微妙に甘い実の味が子供たちを虜にしていました。
“素のわたし“と「自分とは何か?」は、哲学か禅のようであります。こうしたことを考えていくのは、自分の頭の中を探索しているようで楽しいです。
とはいえ、あまり無理せずお身体第一で、と思います。さほりんが快適な生活をしてくださいね。
今回の絵は、実物の作品の表面に感心した作品でした。その事を伝えたかったのだと思います。色使いは、ヒロク二さんらしさがとても良く出ている作品と思います。
こんなに長引く風邪とは・・・、トホホ状態でした。今は、だいぶマシになっています。しかし、私が弱るとヒロク二さんは元気で、意外なことを言ってくれますヮ。散歩は、今、身体が楽になってきて「歩かないといかん!」モードなんです。「その事を教えてくれてありがとう。」ということらしい。身をもって納得したのでしょう。
「あれが夕食?」と言われる通り、食べることに関しては、頑張っていた性質。だけど、具合が悪い時は、やっぱりラクしたいと、前より素直になりました。そう、この頃「素直な気持ち」に目覚めつつもあるのです。
「元々のわたし」の持論に「ありたい自分の形」が出てくるのがともりんらしいな、と思いながら読みました。意志がはっきりと加わっているところに強さというか、決意に近いものを感じます。
私の場合は、後天的なもの、主に経験によって色付けされる前の心情や感情って、どうだっただろうか?というもの。子供の頃のことをよく思い出す事と関係があると思います。しかし、ともりんも“しっかり考える人”ですね。ユニークよ。ともりん好きよ!
桑の実を知っていたのですか!私は始めて見たのよ。蚕のえさに葉はなるのですってね。調べるとそのように書いてあった。小学生の子供達が、その実を食べるのを想像すると、とても楽しげ。私もその中に混じりたいくらい。ともりんにとっては、懐かしいものだったのですね。こちら、神戸に来てから、見る植物も変わったと感じる今日この頃です。木が多いような。
“素のわたし”の入り口なので、まだなんともいえませんが、ともりんは、楽しく感じてくださっているようなので嬉しい。また、時々発見があれば書くと思います。ねぎらいの言葉、心に染みます。ありがとうございます。