この絵は、海。
波がよせ、海原には船が見える。
空に浮かぶ雲。
どうもこの雲にはかなりの湿気が含まれている。
トリコロールカラーで表現されていて、フレンチな感じである。
鉛筆は濃い10Bを使っていて、先はすりへって平になったまま、
グイグイ描いています。
線のありようをジッと見て、
「こういう線って、なかなか描けないんだよな。」と、
思いつつ見ていました。
絵本の絵をよく描いていらしゃる、坪谷令子さんが個展にいらしゃって、
武内とよく雑談していました。
以前、5弁の花が並んでいるだけの絵を見て、武内の前で、
「こういうこと、なかなか出来ないのよねぇ~。」と話しているのを聞いた。
話のじゃまにならないように、遠くから2人の話を聞いていて、
「そうなのか・・・・。」と佇んでいた。
そんなことを思い出しながら、この絵を見ています。
雲の線のゆがみや形を見ながら、
「どうしてこんな風に描けるのか?」と感嘆している。
それに、絵に流れがあって、吸い込まれそうな感じもいい。
何かから解放されるような爽快感がするのも不思議なんです。
はがき大に描かれた絵は他にもあって、描きなぐっていた様子。
他にもあったけれど、失敗も含めるとけっこうな量。
その中から、この絵を選びました。
線の伸び方や、描き方で自由でいようという意志が感じられる。
赤く塗られたところも変に美しい。
自動手記、オートマティスムの領域のようで、
シュールレアリスト達もこの領域にふみこんでいたような・・・・。
そんなことも思い起させます。
今でも、『アンドレ・ブルトン』の本を大事にしている武内は、
シュールレアリストかもしれない。
そんなことを考えさせられます。
わたしはシュールレアリストではなく、現実派なので、
この度、ヒロク二さんに「実務派」宣言を、今朝した。
きのうの夕方から、小説家・福永武彦の「ゴーギャンの世界」を読んでいたヒロク二さんは、
「ゴーギャンは、野蛮を求めてタヒチへ行ってねぇ。
メットという堅い妻がいて、株式仲買人で絵のコレクターだったのが、
絵を描き出すようになってねぇ。
このメットという妻は、まるで絵のことがわからんというのでね。」
「メットにしたら、子供もいるし、ゴーギャンの変容がまるで分らなくて・・・・。」と、
こんなふうに話し出した。
わたしは、「メットは、確かゴーギャンと離れてから、政治活動にも勤しんでいたぐらいだし、
随分、資質の違う夫婦だと思うけど・・・、
確かそれでも実務的なことはよく出来る人だったと思うよ。
フランスからお金を送ったり、コレクションしていた絵を売ってあげていたと思うけど。」
話の途中で、「そういうことは、どうでもよくて。」と、話を遮られた。
人の話は聞かないという、扱いをされたので、おもわず、
「自分の話すことのみで、あなたは、人の話は聞かないでしょ。
そんなことだから、だんだん話を聞いてもらえなくなるのよ。」
と、言いながら、ちゃぶだいの前から立ち上がった。
船酔いのする話し方も我慢して聞いているのに・・・。
「わたしは、もう実務だけしかしないよ。抽象的な内容はどうでもいい。
具体的に指示して欲しいわ。もう、わたしは、実務をするだけで、芸術論は自分でしたら?
絵画論も書いたらろうなの!」と、興奮気味になってしまいました。
「君は、わからないんだな。」と言われた。
「そう、急に“それ”とか、“あれ”とか言うけど、それが何か分らないことが多くて困ってるの。
長い抽象的な話は、あたまがこんがらがるの。」
話している内容と次元があってない、私達2人。
「ケーキも食べたいと言っていたでしょ。焼く時間も確保したいのよ。」
と言うと、自分が食べる具体的なケーキに納得したのか、アトリエに去って行った。
台所でよく口論になります。
それから、時間が経ち、夜になってから、またゴーギャンの話しになった。
「『ノアノア』というゴーギャンの本は、読んでいるよ。」というと、
「ゴーギャンはの行ったタヒチというのは、フランスの植民地で文明化されてしまっているということで
もっと奥にゴーギャンは行きたかったみたいでね。
野蛮というものを肌身に感じたかったようで、それは何だったのかという・・・。」
と、延々話が続きました。
ゴーギャンとゴッホが共同生活していた時に、ゴッホが自分の耳を切ったという話が有名ですが、
この2人の組み合わせを考えただけで、凄まじいものを感じます。
高校生の頃、サマセット・モームの「月と六ペンス」を何気に読んでいると、画家の物語でした。
ゴーギャンのことだったのだと、後で知ることになる。
読むと芸術家達は、お金に苦労するというのだけは、身にしみます。
それと、お金が出来ると、すぐ使いきる。
ゴーギャンは、そうだった。
ヒロク二さんは、その辺は日本人らしく質素で、
通帳とカードでお金を引き出すことすら、出来ないという人。
ATMを前に固まる。
(これは、ありがたいことかも。お金の管理はわたしである。)
ヒロク二さんと違い、ゴーギャンが株式仲買人で有能でだったというのが驚かされる。
そんな能力のあった人が、ここまで絵画にのめりこむ不思議。
ゴーギャンの後半の人生は、過激に映るが、到達したいものがはっきりしていたのかもしれない。
そういうゴーギャンの人生を知らずに絵を長い間だ見ていました。
穏やかで美しいものを感じ、あの暖色系の色の美しい調和にただただ感嘆していた。
ゴッホと同様、日本の浮世絵の影響も見て取れる。
浮世絵を昇華させ、自身の美意識として新しく発展させたことにも脱帽します。
少し、ゴーギャンの晩年の作品を紹介します。
↑“アレアレア”というタイトルの絵。
↑“黄色のキリスト”というタイトルの絵。
ゴーギャンの生き方の激しさとは対照的に、穏やかなこのキリストの顔が心に残ります。
ヒロク二さんは読書中なので、またゴーギャンの話が聞けるでしょう。
「人の話を聞かないから、聞いてもらえないのよ!」は、効き目があったようで、
「さほりは、今、何読んでいるの?」と、低姿勢で寝る前に聞いて来ました。
「ミス・ビアンカ シリーズ、地下の湖の冒険。
美女のネズミが囚人を救う話しよ。囚人友の会というのがあってね・・。」と、
説明すると、無言で去っていきました。
今日は、私の方が、機嫌が悪かったかも。
季節は新緑。
我家の柿の木は、萌黄色の葉を茂らせ葉が日増しに大きくなってきています。
今年は、“柿の葉寿司”を作ってみようか?思ってみたり。
葉が一杯ある。
チューリップも咲き終わって、青々とした庭。
気分がいっそうします。
↑柿の木の葉が大きくなりはじめています。
黄緑色が眩しい。
↑チューリップが終わって、ジャーマンアイリスの蕾が大きくなってきています。
↑種を継いで育てているビオラ。
この黄色いビオラがとても気に入っています。
左上にあるタイプの姿が一番好き。
重いクロームイエローにクラッシクな刺繍の柄にあるように、
花びらの端に薄い灰色が入るっているのを見ると、いいなぁ~と眺めます。
シックな感じがなんともいえない。
過去の絵画作品でも、本当に理解されているか?と思う時があります。
生前、ゴーギャンを理解し、絵を購入していた1人は、
文中に出てきた“月と六ペンス”の作者「サマーセット・モーム」。
私自身は、ゴーギャンの絵の良さを、すべて理解していないだろう。
そんなことを思いました。
しかし、あせらずそんな時があるかもしれないと思うことにしています。
急いで、理解?。
う~ん、理解ではなく、「あ、そうか!」と思う瞬間を待つことにしています。
絵画を見るのに、肩や頭に力をいれないで見る方がいいと。
きょうも、読んで下さった方、ありがとうございます。
(お辞儀)
こちらこそ、よろしくお願いします。
ブログを書くことを、お互いにかんばりましょうね!
一見、何の変哲もない線なのですが、この線はこの位置にこの強さでこのタッチで描かれているということ以外、有り得ない線のようです。線を見ているだけでうきうきしてきます。
はがき大の作品、愉快な感じがします。オートマティズム、シュールレアリスト、アンドレ・ブルトンをキーワードに考えながら何度も見てみました。オートマティズム等をちゃんと理解していないので、そうなのかな?と思うのが精いっぱいでした。
美術的にはわからないですが、この作品は楽しそうで好きです。頭の上に「?」とか「!」とか、ひらめいたときの電球マークが浮かんでいるように見えます。
ゴーギャンとその妻、そして実務派のお話、とっても興味深くそして現実感のあるお話と感じながら拝読しました。
ゴーギャンの本は読んだことがなく、またその生涯についても知識として持っていません。野蛮を求めてタヒチに行った、ということぐらしか知りません。
奥様が実務派で良かった、と思いました。生きていくにはごはんを食べ、生活というものをする必要があります。やはり実務がないと、どんなに優れた芸術家も生きてはいけないと思います。
さほりんがいなかったら、ヒロクニ先生はどんな生活を……と、勝手ながらしばしば思ったりしてしまいます。
『ノアノア』は知りませんでした。読みたいと思いました。近々、図書館で借りて読んでみます。『月と六ペンス』も懐かしく思い出しました。
大きな柿の木で、びっくりしました。葉の緑が美しくて、この写真をパネルにしたらすてきだなあ、と思いながら眺めました。
深い緑に、美しい季節を実感します。深い緑と重いクリームイエローのビオラが、もう本当に心から美しくてうっとりします。こんな感覚を抱けるようになったのも、さほりんのブログのおかげです。
以前の私だったら、「この色が好き」「はっきりした色が好き」という固定観念で、地味な色(ごめんなさい)はちょっと……と思ったかもしれません。新しい感覚を気づかせていただき、ありがとうございます。
イギリスレシピのスパイシーなキャロットケーキ、どんな味なのかな?といろいろ想像しました。あえてインターネットでは検索せずに。
キャロットだから、クローブ、ナツメグ、もしかしてペッパー? それぞれやミックスした使ってレシピの味を脳内で味わいました。
私の知っているキャロットケーキはあまり人参の味がしないのですが、さほりんの作るのはきっとしっかり人参の味がしていて、スパイシーな味がきゅっと効いていて美味しいのだろうなあ、と想像しました。
確かによく考えると、オートマティズムというのは捉えどころが難しい。改めて思いました。私が思い浮かべていたのは、以前見た、トムズボックス出版された合田佐和子氏の「オートマティズム」という本の絵のイメージや、アンドレ・ブルトンの本で「ナジャ」という本の中の絵のイメージが主でした。無意識に絵を描いて、意識下のイメージを連想していくのに画家達は利用していた一連のイメージを浮かべていました。だから、暗いというか、重い絵が多いと思うのですが、今回のヒロク二さんの絵は、軽くて健康的にすら感じたところが面白いと改めて気がつきました。
しかし、よくアンドレブルトンまで調べて、オートマティズムに迫るとは・・、その気迫と探求心には脱帽です。私なんて、「ナジャ」だけ読んで、家に本があっても読もうともしないという・・。アンドレブルトンと聞いただけで、頭がモワッとしてしまって。今回の絵「カラッと明るい」で、楽しい時間の到来を期待させます。私も。
ゴーギャンのことは、夫婦関係のところのみに目がいってしまって、私もあまりゴーギャンの思いや芸術観についてはよく知りません。絵は、学生の頃からいいなぁと思って見ていましたが、見ていただけ。美術館で見て思ったのは、「色彩の美しさ」。知識がなくても、やっぱり感動したりする。絵の良さって、「見る」という即効性にあると言えるかも。知識もあって見てもいいが、なくてもいいとも言えるし、その時、その時でいいのでは?と思います。それよか、やっぱり現実よ!の私です。
ここの柿の木は、大きい方だと思う。もう、上の方は柿の実がとれない。命がけか?と思う時があります。キタハマは、この柿の木に良く登って枝先の方まで歩いていました。
ビオラの色味のことをいうと、着物を見るのが好きになっていた時に、地味な色の美しさに、はまってしまって、自分の中で色味の趣味が変わってしまったようなのです。私は、着物の地味な中にゾワッとした美を見出すようになってしまって、(ほとんど写真)それがビオラにまで及んでしまったのかもしれない。反対に、大輪の花のパーとした華やかさも大らかでいいと感じます。どっちも素敵ということで、欲張りになりましょう!どちらかというと、私はあまり色彩感覚はよくない方だと自分では思っている。ヒロク二さんの微妙な色味使いを見ているとね。
キャロットケーキは、シナモン、グローブ、ナツメグを入れました。確かににんじんの味はしない。重曹を必ず入れるので、蒸し菓子ふうに仕上がります。色が茶色のケーキです。イギリスの菓子は、やっぱり紅茶に合います。ヒロク二さんは、珈琲派なのに、紅茶をよくいれるようになりました。
オートマティズムでは、ともりんに奮闘頂き、恐縮です。疲れたりしませんように。
いつも丁寧に読んでくれて、ありがとうございます!