F8のキャンバスにアクリル絵具。
フォークロアな雰囲気の作品。
この頃から人型への思考があるのがうかがえる。
この頃と書きましたので、いつの頃のか?というと、
40年ぐらい前、ヒロク二さんは、40代の頃の作品と思われる。
わたしは、鍵みたいだな、と思い見ていました。
写真を撮るのに、部屋に立てかけてあると、
「それ、どこから持ってきたの?」と聞かれ、
「奥の部屋(物置き場になっている)の壁にかけてあった」と答えた。
「そう。」と言って、またアトリエに篭りました。
わたしは、けっこう好きな絵だったので、わざわざ壁に飾っていたのです。
この絵のザクザクと尖がっていたり、切れ目が見るものに、
エモーション、情動を起させます。
また、子供の頃した遊びで、「だるまさんがころんだ」というものがありました。
「だるまさんがころんだ」という声の間に、動く遊び。
ピッタッと動かなくなった瞬間のようで。
時々、おかしな格好をする羽目になるのが出てきて、
笑いをさそう。
そんなことも思いだしてしまいました。
この絵は、形が洗練されているので、
このような遊びとは随分違うのですが、
“ピッタッと動かなくなった瞬間”つまり、静止した時の静けさが似通っている。
ヒロク二さんは、わたしのように集団で子供っぽい遊びをしたという話は聞きません。
唯一話したのは、「鬼の橋渡った」らしく、
「鬼が突き飛ばしよるの。なんでぇて思ってね。嫌になってよぉ。」と言い、
「あの土に線を引くあの在りようは、いいんだけど、なんか触られるでしょ。
気安くさわりやがると思って、好きじゃなかった。」と。
ナンだか、子供の頃から“自分は特別”みたいに思ってそう。
今も、自分は特別な人、つまり“芸術家”で、他の人と違うと思っているところがあります。
普通と特別の間で、ゆれることがない。
とてもいい。
しかし、時に孤独になることがあって、
孤独感が増し、許容出来なくなると、
惨め路線へ真直ぐ進むようで、その時の雄叫びも激しい。
ストレートゆえに、面食らう。
それも憎めないような感じがあって、得な人だ。
芸術家って、孤独になりやすい人種だと思います。
個性か強ければ、強いほど。
だけど、自家製「柿の葉寿司」を食べたから、
我が良人は、大丈夫!です。
柿の葉寿司を作りました。
以前作ったときは、柿の葉を取って洗ったもので作りましたが、
今回は、葉を洗ってから塩をして、重石をして葉を柔らかくしました。
改良一点目。
以前は、買ってきたしめ鯖だけでしたが、鯛を酢昆布締めにしました。
改良二点目。
自分で握らないで、箱寿司を作る容器である程度、米の形を決めてから
それを葉にのせて包みました。
改良三点目。
↑これが、持っている押し寿司の型なのですが、もう少し幅を小さくしたいので、
板を切り出して、添え木を作りました。
では、行程を紹介します。
↑柿の葉を、まず洗ったところ。
布で拭いてから、これに塩をすりこんで、重ねてビニールの袋に入れ、本で重石をしました。
2時間ぐらい。
すると、葉がやわらかくよく折れ曲がるようになりました。
↑葉が思ったより小さかったので、二枚重ねて包むことにした。
ご飯の下には、しめ鯖、または鯛の昆布締めがあります。
↑包んだものを、大き目のタッパに入れました。
空いた隙間には、残った柿の葉を詰めた。
↑重石の下に入れる蓋のようなものがなかったので、水彩のパレットを重ねた。
その上に重石をした。
袋に入っているのは、庭から持ってきたもので、
万が一砂がついていたら嫌なので、ビニール袋に包みました。
そして、冷蔵庫の中で一晩寝かして翌日食べます。
翌日、今日6日にヒロク二さんが、
「お腹すいた。なんか食べさせて。」というので、
「柿の葉寿司、食べれるよ。」といいすぐ取り出した。
無言で食べていたので、「どう?」と聞くが、
「さほりの作ったものなんだから、美味しいよ。」と。
言い方が変だ。
後で食べてみると、ご飯が固めすぎるし、何かが足りない。
レシピのとおりしてみたのだが・・・・・。
敗北感をしばし、味わった。
そして、わさび醤油をつけて食べて、気を取り直した。
次は、ご飯は普通に炊き、塩味として昆布だしを加えて、味見をしようと思った。
この手間を考えると、やはり「柿の葉寿司」に関しては、
買った方がいいという気もした。
奈良の吉野にある、創業何十年という老舗の「柿の葉寿司」があまりにも美味しかったので、
それが忘れられない。
それで、柿の葉を見ると、つい「自分で作れば・・・。」と思ってしまうのでした。
次作れば、三度目の正直になるのでうまくいくかも?と期待する。
ご飯が、かたすぎるのはよくない。
しみじみ思いました。
庭では、ジャーマンアイリスが。
↑今年は、たくさん花が咲きました。
↑薄い藤紫色なので、陽射しがきついと白っぽく映るので、夕方に写真を撮りました。
蕾もまだあって、こんなに花が咲くのは初めてです。
植えっぱなししてから、何年経っただろう。
最近、何年経つのか?と思うことが多くなりました。
↑最後は、食卓のビオラ。
口が小さくなった容器に。
いろいろなビオラをアラカルト。
どれも、種から育てたもので、華やかさがないけれど、
我家の食卓にはよく似合います。
柿の葉寿司は、細かにする作業が多くて、疲れたような。
いや、お味で疲れたのかも。
気落ちしました。
その代わりに、ジャーマンアイリスが花を咲かせてくれています。
しょんぼりして、庭にある椅子に座っていました。
気落ちした時こそ、花の持つ癒しの力を感じながら。
偶然、今年は花がたくさん咲き、いつもと違うジャーマンアイリス。
初めてのことでした。
そして、料理に失敗して気落ちした時が重なりました。
偶然は必然と言われますが、こういう偶然が起こるのは、
何かが与えてくれた恵みのように思います。
今日は、失敗談でした。
努力して失敗するという・・・。
しかし、失敗は成功の元として、糧にします。
たかだか寿司のことですが・・・・。
今日もお読み下さり、お付き合い下さった方、ありがとうございます。
配色も良いですが、各色も絶妙です。前面のグレーの人のようなモチーフ、一見地味に思えますが、この背景の前に描かれるているからでしょうか、とても魅力的です。
芸術家の孤独感を興味深く拝読しました。芸術家は常に自己と戦っていると感じました。人の感情として、生活や現実と、感性と芸術と自己の感覚の境目ギリギリのところに立っていて、両者と戦っているイメージを想像しました。
柿の葉寿司、なんて手間がかかるのでしょう! よくぞ作られました。食べてしまえば一瞬ですが、作る過程はとても手間がかかることに、はかなさを感じます。でも、料理ってそういうものが多いなあと思います。
作る手間や見た目や形、食べやすさを考えて手間をかけて調理をしていく。そういう過程も味に反映されるのだと思います。調理する人は大変なのですが、それを食べる人は嬉しいです。味は、単にその料理は食材の味だけではないのだと思います。
重石の下に入れる蓋のようなもの、に水彩パレットを使われたことがちょっと面白かったです。画家さんのお宅ならではです。ヒロクニ先生の「さほりの作ったものなんだから……」に優しさを感じます。
そして、改めて考えてみると、私は柿の葉寿司を食べたことがないことに気が付きました。書物では何度も読んでいたので知ったつもりになっていました。
ジャーマンアイリスが満開で華やかです。ハナショウブと形は似ているけれど和と洋では全然違うものだなあと感じます。
今回もビオラの活け花がすてきです。色合いとか活け方とか、良いなあ……と細部まで何度もながめてしまいます。身近にあるものを美しく仕立てられるその感性は理屈ではないのだと思いますが、「どうすればできるのかな?」といつも考えてしまいます。
自分ではできません。いろいろ頑張るのですが、何かが違うのです。自分で仕立てたものは、なんというか機械的で合理的、数字で表されるようなものになってしまいます。空間に生きている自由さがないのです。
土に根を張って生えている花は、自然の姿として美しいと思いますが、それを切り花にして活けることで、それとは違った心が動く美しい姿に変わると思っています。
さほりんのビオラは、土に生えているときも活けられているときも、美しいです。
前回のイギリスのキャロットケーキのこと、イギリスのお菓子は紅茶に合い、そしてクラシックな感じがします。茶色いキャロットケーキを食べながらウイスキー・ソーダ(コーヒーではなく、敢えて)を飲むとシャーロックホームズのような感じになりそう、と楽しく想像しました。
キタハマちゃんが勇猛果敢に柿の木に登る姿を想像しました。白と黒の被毛がはっきりとした美しいキタハマちゃん。柿の葉の緑にすばらしく映えたのだろうな、とうっとりしました。
この絵をネイティブアメリカンの感覚とのこと。これはピッタリきます。そう言われたら、そのようにしか思えないですね。(笑)ヒロク二さんの色使いは、日本人離れしていて、独特な絵があります。これも、そういう絵の一枚ではないかな?
ヒロク二さんは「絵画は闘争だ。」とよくいいます。この“闘争”の意味がはっきりとは分りません。自分との戦い?何かを極める戦い?そんなふうに思っていますが、正確にはわからないまま。これも孤独と関係があるのか?よく分りませんが、「俺は、孤独だー!」って叫ぶ時、人に訴えかけて、ある種の吸引力を出して、バランスをとっているような感じです。こもるのではなく、人の中に突っ込んでいくのがヒロク二さんなんです。芸術家らしい・・・。(汗)
柿の葉寿司を食べたことがないのですね。たぶん奈良の特産品だし、日持ちの関係や、箱寿司とも似ていて関西のものなんだと思います。柿の葉寿司は、実は父が奈良に行った帰りに、神戸に立ち寄ってくれて、貰ったものでした。父は味にはうるさいので、老舗のものだったのだと。箱や味に風格があったのです。その味が、柿の葉を見ると脳内でふくらむようです。そして、変な情熱が燃え・・。(笑)
ヒロク二さんの「さほりの作ったものなんだから・・。」は、健気です。しかし、ご飯が硬くて、口の中でゴワゴワしていました。何度も、「あまりうまく出来てなかったみたいで、ごめんね。」と言っても、「そんなことない。」って。こういう面は、優しいというか、可愛らしい人だなと思います。
ジャーマンアイリスは、どうしたのでしょ?というくらい花を付けました。花も人をあっといわせます。花を食卓のテーブルに置くの長くなりました。だんだん、やり方も進化したかもしれません。この白い容器は、口が小さいので花と葉がついたままの茎を何本か束ねて、口の所が剣山の代わりのような役目をしていて、そこに花だけのビオラを挿しています。色は花を見ながら合わせていますが、時折、「これ合わない。」と思ったら、使わない。ともりんは、うまくいかないと書かれているので、あえてアドバイスするとしたら、肩の力は抜いて、ちょっと適当気分を+プラスしてみたらと、思いました。
美しいといってもらえて光栄です。
イギリスのクラッシックな感じは、いいなとよく思うようになりました。シャーロックホームズ生み出した土壌というか、味わいがあります。イギリスは、パブ文化があるらしくて、そこでともりんと簡単な料理を頼んで、お酒を飲みながら話すなんて、想像してしまいました。
キタハマは、利発な感じで、木の上から、私達を見下ろしていました。あまり意識していなかったけど、緑の葉から顔を覗かせていた様子を思い出しました。ありがとう!懐かしく、楽しい思い出を喚起させてくれて。
コメントありがとうございます!