不気味な顔だ。
地平に立っている標識のようでもあり、そうであればその意味は?
また、置物と考えると微妙なバランス感覚で立ち、重さは感じられない。
瞳はないのに、睨まれているような気もする。
「お前は、もう終わりだ。」というセリフが似合いそうな女の顔。
シュール感がたっぷりの色鉛筆画。
この紙の皺や白い部分の汚れ具合もわざと表現している。
紙と色鉛筆の蝋で、なめされています。
武内は、「描き始めた時は、空間が狭く感じたけれど、
描き進むにつれて広がりがでたなっと思って、続行してみたら思ったより広がってねぇ。」と、
話していました。
広がりの話、イマイチよくわかりませんでした。
説明まで、シュールなんだ・・・と思うのでした。
ヒロク二さんは、リハビリ中。
コロナでこもっていたので、歩き不足で今長距離が歩けなくなっています。
つい最近、病院の帰り道を歩くと言い出し、歩きました。
距離は、電車で二駅ぐらい。
足が靴擦れを起し、もうダメと言いながら休憩したりして家に帰り着く。
靴履いていないのじゃない?というくらい外に出なかった結果だ。
それから、涼しい時間に「散歩に行って来る。」と言い、続けています。
朝、台所で脚をのばして言うには、
「歩いた後と、歩く前では身体が違うのを感じていた。」と。
「一度歩いたら翌日身体が変わり、もう一日歩くと、力がつくのを感じる。」
「ちょっと、安心したねぇ~。」
「続けないかん。」
こう言っている姿は、清々しいものがありました。
ヒロク二さんの好きそうな話題にもっていこうとして、わたしは言った。
「あの哲学者の“メルロポンティ”は、身体論のようなことを言っていたじゃない。
意志も大事だけど、身体が変れば意志も強くなるって。
自然に身体が動くようになることで、目的が達成させられるというやつよ。」
そう言うと、「“メルロポンティ”は、言語学者だったと思うけどな。」
「まあ、哲学者も身体論をあれこれいっているけど。言い尽くされているよ。」
と、返事が返ってきた。
わたしの中で、最近知った“大まか簡単哲学の一部”は、思い違いをしていたのかもしれない。
知ったかぶりが、ばれた。
ともあれ、歩くことで爽やかさが出たので、わたしこそ一安心。
家の中で抽象的なことばかり考え、また妄想に入られると、
独特のオーラーを放っているように、わたしには見えるヒロク二さんだ。
ある種の粘着性のあるエネルギーに感じることもあれば、
カラッとした浮いたようなエネルギーの時もある。
勢いがある時もあれば、身体に溜め込んで外には出さない時もある。
友情というか熱い思いをふりまいているかと思うと、
怒りで何かを吹き飛ばす勢いの時もある。
最悪なのは、不平不満を言っているときは、曇っていて灰色のエネルギーのように感じられる時。
言ってもしょうがない不平不満ばかりで、聞きづらいので「いいかげんにせんかい!」と思った時、
以前は、「それはわたしのせいじゃない。」とか、
「わたしにはどうにもできません。」と言っていましたが、新しいのが加わりました。
「あのね、不平不満が多い人って、皮膚病にかかりやすいそうよ。」という言葉。
「そんな迷信みたいなこと。」と反抗的な態度でした。
「さあ、迷信かもしれないけど、この前、老人性しっしんで病院行った時も、
不平不満たらたらだったのじゃないかな?」と顔を見た。
「別にいいけど、直りかけている腫れ物が、また再発したどうするの?
不平不満で、おできが又大きくなってくるよ。」と言ったら、静かになった。
急に、口を閉じたのです。
思うことがあったのか、不平不満がやんだ。
ヒロク二さんって、話はわかりにくいけれど、頭はいいはずなんです。
芸術に関することに対しては、造詣が深い人なのです。
なのに、簡単に子供みたいに素直で、意外と可愛いところがあります。
それとも、不平不満と皮膚病の関係を、身体で理解したのか?
悪知恵の働く妻の勝利の瞬間でした。
大抵は、負けるので「やった!」と思い、この手を使える時は使うつもり。
上記の話は、台所でしていました。
台所にあるテーブルには、不思議な光景もあったのを紹介します。
↑蛍光灯に照らされているフィギア。
そのフィギアは、こういう置き方をされ、光に向かって口をあけているように見える。
一週間ぐらい置いてあって、異様な光景。
やっぱり、シュールな感覚とでも言うか・・・。
ご飯を食べる時も、お茶を飲む時も、料理をしていても、この光景が目に入ります。
たぶん、これはピカチュウと思われるけれど、
ヒロク二さんは、なんの色眼鏡なく形として純粋に見ているのだと思う。
気に入って拾った物のコレクションが、時々不思議なシュチュエーションで飾られる。
ヒロク二さんに聞くと、
「捨てようかなと思ったけど、捨てる前にこうやって飾ってやれと思ってさ。」という事でした。
「こうやって飾って」の部分が気になりますが、
感覚で一瞬にして決めているから理由はないのだと思う。
「何で?」と聞きたいことばかりがある我家。
そうやって、妻は、鍛えられているのであった。
このフュギアの横にビオラ。
↑赤い花を中心に。
赤、白、黄色という歌にある通りの配色になりました。
月並みな色合わせと思っていましたが、やや重い赤色と黄色がイギリス風かなと。
ゴブレットに入れてみたのが、そう思わせるのかもしれない。
この黄色いビオラは、種も採取したので、来年も咲かせるつもり。
↑雨が降る前にと思い、里芋を植え付けました。
この網は、猫が多い地域なので掘られないようにしています。
野菜はやっぱり畑で植えないと、りっぱに育たない気がしてきています。
それと、ほうれん草って育てるの難しいのだと思い始めています。
何回もトライするのですが、うまくいきません。
ねぎも植え付けをしたいのですが、場所を決められないでいます。
今日は、シュールな絵と、シュールな光景とを合わせました。
私達が話をするといえば、台所。
台所が大活躍の我家。
ある日の台所での日常を書きました。
話があっちこっちへと飛ぶブログですが、
最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。
下の茶の土台部分が海底で、細い首のようなものが海藻の茎。そして、顔はゆらゆらと深海に漂う大きな海藻。すごく幻想的です。なめした紙の折れ目に海の底に届く太陽の光を感じます。
大きな顔の後ろには、深い深海がどこまでも、そして深く広がっているように見えます。
歩くことはとても大事です。少し歩いていないと、各段に歩けなくなっている現実に愕然とします。私も頑張って歩きたいと思います。
「不平不満」→「皮膚病」、新鮮です。一理あると思いました。「ささいなこと」と思っていても、意外に自分としてはダメージを受けている精神状態だったということは、多々あると思います。
そんなとき、体は「結構つらいよ」とサインを出すので、それは皮膚や体のわかりやすいところに出るのでは?と思っています。
私は抵抗力が低くなると口元に単純ヘルペスが出ます。自分では「大丈夫、元気!」と思っていても、精神的または身体的に負荷がかかっていたと思われたときには大体発症しています。体は正直なのだなと感心します。
不平不満と皮膚病の関係は、悪知恵ではなく、(多分)関係が深い事実だと考えます。なので、胸を張ってどんどんこの手を使ってください。
フィギュアは、確かにピカチュウのように見えます。でも、置き方にセンスがあるというか、雰囲気があってキャラクターのフィギュアに見えません。
さほりんの活け花もそうですが、こういう何気ない空間の配置って難しいと思います。頑張っても努力しても、うまくいかないのです。
今回のビオラもすてきです。花の色の置き方や配置、無造作に活けているように見えるけれど、これができないのです。
お庭のビオラを摘んで家にある器に活けているという日常なのに、毎回、「すてきだな」と自分もセンスも良くなったような気分になってうっとりしてしまいます。
同時に「この雰囲気がだしたいのになあ……」と、考えこんでしまう自分がいます。頑張ります。
さほりんが活けたビオラの静物画を、ヒロクニ先生に描いてもらったらどんな作品ができるのかな?と想像したりもしています。
里芋を植えられたとのこと、今年もずいきを作られるのでしょうか。でも、ずいきを作るのは本当に大変です。あまりご無理をされませんように。
「往復書簡」と言っていただけると、とても嬉しいです。コメントとそのお返事をいただいているやり取りですが、本当に往復書簡のようです。ちょっと、文豪になった気分です(笑)
「深海」というイメージというのが、新鮮でした。ともりんは、海が好きなんだ・・と思いました。ヒロク二さんには、「海」というテーマは、遺伝子のように組み込まれているので、そんな匂いを嗅ぎ取ったのかもしれないと思いました。ブルー(実物はもっと濃い)の色がなんともいえない作品で、そういう色を私は空に感じ、ともりんは海を感じるのだと思いました。近頃、ヒロク二さんは「海がみたい。」とこぼしており、やっぱり海の人だからなぁーと、思ったりしています。
皮膚病と不平不満は、関係あるという意見をありがとうございます。確信はないけれど、私はあると思ったから、ヒロク二さん言ってみたのです。冬は寒さのことやそれ以外にも、たらたらと文句言っていたのを覚えていて、その時は老人性皮膚病だったと。大まかにいうと、ストレスですなんですけど。ストレスと言うと皮膚病意外にも病名が増えそうで的を絞ってみたのです。
私が、皮膚病にはほとんどかからないのが不思議。しかし、突発性難聴というのにかかったことがあって、ヒロク二さんがやたら私に訴え、その話を延々聞きていて、「もう、いいかげん聞きたくないなー。」と思っていたら、右耳が聞こえなくなったことがあります。病は、気からという言葉のとおりだと。読んでいると、ともりんは、口元に出来てしまうのですね。口元は、場所的にも、痛そうな感じがして、気の毒・・。そういう時は、休息しないといけないのだろうと察します。
時々、花の飾ったコップをアトリエにもっていくことがありますが、その花を描いた様子はないみたい。枯れた花がテーブルに置かれたままになっています。エキナセアはよく描くけれど、ビオラは描いていませんね。「ビオラ、何で描かないの?」と言ってみます。どんなふうにいうのか?楽しみ。
ビオラの花の生け方、いつも褒めてくれてありがとう。たまに、うまくいかない日もあるのです。「あれ、何かおかしくなった。」と言うと、横からヒロク二さんが「ほんとだ。」って。
庭での里芋栽培は、今年はずいきを作れない種類を植えています。ずいきが作れる芋は、お高いからやめました。今は、枝豆が実をつけていて、収穫できるか?とハラハラしています。
「往復書簡」です。
私達は、新しい文豪なのよ。(笑)
コメントいつもありがとうございます。
梅雨空を眺めつつ・・。