27歳-9
ぼくらは空港にいた。上にある電光掲示板のようなもので羽田行きの飛行機の時間をなんども繰り返し見ていた。刻々と数字は変わることがないのに。
世の中というものが、ちょっと先にある楽しみとなる予定をなし終える作業の連続のようにも思えていた。ぼくはここで彼女が生まれた日をともに喜び、彼女はひとつ年齢を重ねた。なにかの書類に自分の名前や住所や年齢を書き加える必要が生じた場合、その最後の年齢の欄には変更があった。引っ越せば住所も変わる。女性の方が多く名前も変わる可能性があるのだという未来の事実も予想した。だが、当面は年齢だけがひとつ加わるのだ。最初のうちは慣れなくて間違うかもしれない。小学生のときにそのようなことがあったような記憶もあるが、自分で書類に文字を記入することなど起こりえたのだろうか? テストぐらいかもしれない。しかし、答案を集める先生が自分の学年を知らない訳もない。彼(彼女)こそがぼくの学年を証明する最適任者でもあったのだ。ぼくはまた羽田という文字を見上げる。あと一時間ほどあった。ぼくらは名残惜しく地元のそばを食べるために空港の奥にあるレストランへ向かった。
注文を終えると、ぼくらは話すこともなくなってしまう。希美はなんだか眠そうにしていた。そばが持ってこられればまた違うのだろう。
ぼくは先ほどの空想に戻る。計画していたものを満足して終えるか、不満足で終えるかが生きるということの最終的な争点であるようにも思えていた。ぼくは、この数日間を満足のみで終えることになりそうだった。しかし、満足というものは記憶として残りやすいものだろうかとの疑問も同時にあった。その場が満足であれば、問題はないはずだ。楽しみの究極の追及は完全に満たされた。不満はまったくない。これほどの喜びの解放もない。勝利者。トロフィーを片手で頭上に突き上げ、満足のもたらす名誉や栄誉に酔い痴れる。
反対に不満足で終わることも多々あった。ぼくはあの最初の少女のことを考えていた。突然、中途で終わったものだからこそ、それは逆に永続性を手に入れた。不満足な終わり方。ひとことで言えば未練なのだろうか。やるせなさ。どちらがぼくの記憶にとどまるのだろう。そして、記憶というものがぼくにとってそれほど大切で、重大事なのかという問題もあった。ぼくは、この空港の片隅で満足感を浴びている。この終息こそ待ち望んでいたものではなかったのか。そこで、注文の品が届いた。
空腹が満たされたことなど一々覚えていない。飽食の時代なのだ。だが、大事なお小遣いで買った食べ物を誤って地面に落してしまったとしたらどうだろう。それは記憶に残りやすかった。大事な宝物をなくしてしまったら。自転車をぶつけて廃品にしてしまったら。その最後には失恋や誰かとの死別というものがあった。記憶に残るのは失くしたものたちなのだ。だとしたら、ぼくはこの美しさを過剰に持て余しているような希美を失う必要もあった。
彼女は薄着でいる。空港のなかは暑かった。太陽のしたにいる彼女。水着の彼女。そばを箸ですくう彼女。鼻の先を日焼けしている彼女。そのすべてをぼくは記憶しなければならない。だが、その選別はぼくの意識が、どうやら無意識でしているようだった。ぼくという存在のためこんだ思い出など、決してぼくの主導では行われていない。ぼくの意識や決意とは違うところでそれはコツコツと勤勉な人格も姿もない製造ラインで成し遂げられているかのようだった。
「早く食べないと、のびちゃうよ」と希美はぼくのそばを指差し、そう言った。「でも、この麺、のびないのかな」さらに箸で持ち上げた麺を裏側からのぞくようにして付け加えた。
ぼくはスープをすする。満足と不満足の境界線にぼくはまだいた。一塁から二塁への盗塁を試みるランナーのようにおそるおそるリードを広げる。投手はぼくの動きを肩越しで気付かれないように確認している。もちろん、ぼくはその様子と、ぼくの足と、それ以上に、捕手の肩や腕の強さの潜在能力を計っていた。ぼくはピッチャーを葬り去れない過去から呼び戻した少女だと思おうとした。彼女はぼくの次の恋の行末を見守っている。それを阻止しようとしているので応援ではない。ならば、キャッチャーは誰であるのか。ぼくの未来を阻もうとしているのは一体、誰なのだろう。ぼくは麺をすすり、その想像をもっと、もっと、膨らましていった。
「もう搭乗時間になるね」希美のひとことでぼくは現実に連れ戻される。
希美は飛行機のなかで少し寝た。二時間ぐらいであっさりと羽田に着いた。いくつかのゲートを抜け、駅に向かう。ぼくらはそこで別々の鉄道会社の路線の駅に向かう。希美は手を振る。ぼくは床に置いてあったカバンを重そうに担ぎ、反対側に歩きだした。身体の一部が太陽の後遺症で服と擦れ痛みを生じさせた。改札を抜けるとぼくはひとりぼっちになった。電車に乗り込み目をつぶる。青い空のしたの希美。ある年齢の最初の日。翌年。三六五日。もしくは六日。ぼくは満足をこの数日で手に入れた。誰も勝利者インタビューをしてくれない。それでも、幸福は確かにそこにあったのだ。第三者の指摘など本音を言えば必要なものではまったくなかったのだ。ぼくは動じない。電車の揺れでも、こころという範囲のなかでも。
ぼくらは空港にいた。上にある電光掲示板のようなもので羽田行きの飛行機の時間をなんども繰り返し見ていた。刻々と数字は変わることがないのに。
世の中というものが、ちょっと先にある楽しみとなる予定をなし終える作業の連続のようにも思えていた。ぼくはここで彼女が生まれた日をともに喜び、彼女はひとつ年齢を重ねた。なにかの書類に自分の名前や住所や年齢を書き加える必要が生じた場合、その最後の年齢の欄には変更があった。引っ越せば住所も変わる。女性の方が多く名前も変わる可能性があるのだという未来の事実も予想した。だが、当面は年齢だけがひとつ加わるのだ。最初のうちは慣れなくて間違うかもしれない。小学生のときにそのようなことがあったような記憶もあるが、自分で書類に文字を記入することなど起こりえたのだろうか? テストぐらいかもしれない。しかし、答案を集める先生が自分の学年を知らない訳もない。彼(彼女)こそがぼくの学年を証明する最適任者でもあったのだ。ぼくはまた羽田という文字を見上げる。あと一時間ほどあった。ぼくらは名残惜しく地元のそばを食べるために空港の奥にあるレストランへ向かった。
注文を終えると、ぼくらは話すこともなくなってしまう。希美はなんだか眠そうにしていた。そばが持ってこられればまた違うのだろう。
ぼくは先ほどの空想に戻る。計画していたものを満足して終えるか、不満足で終えるかが生きるということの最終的な争点であるようにも思えていた。ぼくは、この数日間を満足のみで終えることになりそうだった。しかし、満足というものは記憶として残りやすいものだろうかとの疑問も同時にあった。その場が満足であれば、問題はないはずだ。楽しみの究極の追及は完全に満たされた。不満はまったくない。これほどの喜びの解放もない。勝利者。トロフィーを片手で頭上に突き上げ、満足のもたらす名誉や栄誉に酔い痴れる。
反対に不満足で終わることも多々あった。ぼくはあの最初の少女のことを考えていた。突然、中途で終わったものだからこそ、それは逆に永続性を手に入れた。不満足な終わり方。ひとことで言えば未練なのだろうか。やるせなさ。どちらがぼくの記憶にとどまるのだろう。そして、記憶というものがぼくにとってそれほど大切で、重大事なのかという問題もあった。ぼくは、この空港の片隅で満足感を浴びている。この終息こそ待ち望んでいたものではなかったのか。そこで、注文の品が届いた。
空腹が満たされたことなど一々覚えていない。飽食の時代なのだ。だが、大事なお小遣いで買った食べ物を誤って地面に落してしまったとしたらどうだろう。それは記憶に残りやすかった。大事な宝物をなくしてしまったら。自転車をぶつけて廃品にしてしまったら。その最後には失恋や誰かとの死別というものがあった。記憶に残るのは失くしたものたちなのだ。だとしたら、ぼくはこの美しさを過剰に持て余しているような希美を失う必要もあった。
彼女は薄着でいる。空港のなかは暑かった。太陽のしたにいる彼女。水着の彼女。そばを箸ですくう彼女。鼻の先を日焼けしている彼女。そのすべてをぼくは記憶しなければならない。だが、その選別はぼくの意識が、どうやら無意識でしているようだった。ぼくという存在のためこんだ思い出など、決してぼくの主導では行われていない。ぼくの意識や決意とは違うところでそれはコツコツと勤勉な人格も姿もない製造ラインで成し遂げられているかのようだった。
「早く食べないと、のびちゃうよ」と希美はぼくのそばを指差し、そう言った。「でも、この麺、のびないのかな」さらに箸で持ち上げた麺を裏側からのぞくようにして付け加えた。
ぼくはスープをすする。満足と不満足の境界線にぼくはまだいた。一塁から二塁への盗塁を試みるランナーのようにおそるおそるリードを広げる。投手はぼくの動きを肩越しで気付かれないように確認している。もちろん、ぼくはその様子と、ぼくの足と、それ以上に、捕手の肩や腕の強さの潜在能力を計っていた。ぼくはピッチャーを葬り去れない過去から呼び戻した少女だと思おうとした。彼女はぼくの次の恋の行末を見守っている。それを阻止しようとしているので応援ではない。ならば、キャッチャーは誰であるのか。ぼくの未来を阻もうとしているのは一体、誰なのだろう。ぼくは麺をすすり、その想像をもっと、もっと、膨らましていった。
「もう搭乗時間になるね」希美のひとことでぼくは現実に連れ戻される。
希美は飛行機のなかで少し寝た。二時間ぐらいであっさりと羽田に着いた。いくつかのゲートを抜け、駅に向かう。ぼくらはそこで別々の鉄道会社の路線の駅に向かう。希美は手を振る。ぼくは床に置いてあったカバンを重そうに担ぎ、反対側に歩きだした。身体の一部が太陽の後遺症で服と擦れ痛みを生じさせた。改札を抜けるとぼくはひとりぼっちになった。電車に乗り込み目をつぶる。青い空のしたの希美。ある年齢の最初の日。翌年。三六五日。もしくは六日。ぼくは満足をこの数日で手に入れた。誰も勝利者インタビューをしてくれない。それでも、幸福は確かにそこにあったのだ。第三者の指摘など本音を言えば必要なものではまったくなかったのだ。ぼくは動じない。電車の揺れでも、こころという範囲のなかでも。