爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-11

2014年01月25日 | 11年目の縦軸
38歳-11

 昼ご飯をいっしょに食べながら、原島さんは太ったと言った。ぼくは日中、仕事で関わるので「原島さん」ときちんと読んだ。頭のなかでもそう思い込むように仕向けていた。ひとの神経の反応というのは不思議なものだ。電話に出る場面では、きちんとその場に応じた名称を名乗って受話器を取る。家では、自分の名前。職場では、会社名と所属部署を先頭に置き、実家では、それらしい声音で。計算もしていないのだが自然と振る舞う。それに関連するのか分からないが定食屋のテーブルの前にすわる女性を原島さんと呼ぶ。

 ぼくは、昼に彼女がぼそっと言った「太った」というひとことを夜に検証している。まったくそのようなことはなかった。広大な平野のように見渡す限り平らなお腹だった。中心に湖のような穴がある。おへそ。もしかしたら、中禅寺湖。先には滝があるのかもしれない。いろは坂も。だが、そうなるともう平野ではない。

「ぜんぜん、太ってなんかないよ。絵美は」
「そう?」満ち足りた猫のように彼女は身体をくねらせた。

 物事の基準として、あらゆるサイズがある。センチメートル。キログラム。ガロン。リットル。インチ。しかし、ぼくは両手の感覚だけで、いろいろなものを認識する。質感も、手触りも含めて。正確さも完全に帯びていないが、ミリ単位での精細さなどここでは重要ではない。しっくりいくか、いかないか。でも、ぼくは何を判断材料にして、しっくりきたなどと決めているのだろう。そして、これが丁度よいサイズなのだとの基準は、より少ないとか、より膨らんでいるからといって、あやふやさが仮に生じたとして、ぼくにどんな不都合な結果があり、正すべき誤謬があるというのだろう。何もない。皆無だ。しかし、同時にこの日の絵美のお腹はぼくにしっくりときたのも事実だ。計るべきスケールが手元になくても。

 彼女の頭のなかにも、ぼく(男性という総体を含め)に対する基準となるべきサイズがあるのかもしれない。ぼくは自分の身体を見回す。ほとんど手入れというものをされたことのない肉体。それでいながら、今日まで充分に働き、機能してくれていた。人間の五感も不思議で複雑であれば同様に身体も摩訶不思議なものであった。摩訶不思議なもの同士がぶつかった。そこに作用のようなものがあり、歓喜も少なくないぐらいにあった。

 最高の体験。最高の音楽。もっとも好きな映画。感動したシチュエーション。そこには経験による手応えがあった。複数の情報を処理した積み重ねからすくい取られたものたちだった。はじめて、ということはいかに危うく、おぼろげなものだろう。はじめてで最後の海の波ということは絶対にあり得ない。ほんとうの意味で数えられない波が、岸辺を襲った。波打ち際は形状を常に変える。ぼくは、何度か道を踏み外しそうになりながらも、ここまで生き、絵美のことを知った。知ったというのも、もう外面的なことばかりではない。そこに、はじめてという物差しは介入されない。たくさん知り、たくさんのことを忘れ、気づいても気づかなくても素通りしてこの場に至る。だが、新鮮さが完全に奪われるということもあり得ない。胡椒などのスパイスは、いつも微量に分量を間違え、新鮮さを思い起こさせてくれるものだった。

 ぼくは絵美のお腹に自分の耳を当てて横たわる。内臓が働いている音がする。ぼくはこの痩せたお腹が好きだった。なぜ、好意をもつのかほんとうの意味での理由は分からない。もう自分のルーツや先祖をたどれないように、ぼくの根源的な好みなど解明できないのであろう。音がする。ぼくは絵美の中身も好きになるが、その中身というのは感情のことだけであるらしい。数々の管でできている人体。ぼくは絵美の血管を愛しているわけではない。その血がめぐる感情は好きなのだ。ならば、ひとを好きになるというのはどこのことなのだろう。管。管の入口。出口。

「ねえ、太ったんじゃない? 洋介さんさ・・・」彼女は普段、さん付けで名前を呼ぶようなことはなかった。
「そうかな?」
「お昼、おかわりし過ぎじゃない?」
「ひとりで食べるより、おいしいからね」

「でも、ひとりのときより、ゆっくりと食べているはずなのにね、不思議」そう言って、数度、彼女はぼくのお腹を軽く叩いた。犬がお腹を見せるのは安心と信頼と服従との組み合わせであるならば、ぼくらもそれぞれ似た気持ちになっているのだろう。背を向ける、という表現もあった。ぼくは、絵美のなだらかな背骨の両脇に位置する稜線を見る。そして、なぞる。背中の中心など自分で見ることはできない。左側にほくろがあった。自分では絶対に見ることができない部分や、理解できない性格の一部など、発見しないまま自分の人生も終わってしまうこともあり得るのだろう。誰かが指摘したので、存在するようになった科学の法則もある。指摘されなくてもあることにはあった。それを解明して、名付けられ、皆に知れ渡るようになってある列の順番に並ばされる。はじめは最後列で。先頭にいたものも、いらなくなれば忘れ去られる。石炭のように。絵美の背中の黒い点。ぼくは知っている。前の交際相手も知っていたのだろうか。発見者はいちばんであることが望まれる。だが、はじめてなどどこにもない。どこにもないので憧れるという範疇に入れることもできない。