16歳-11
ぼくらはケンカをしなかった。だから、彼女が泣いた姿も、怒った素振りも容易に見ることができなかった。そのことは例えれば昼の世界にいるだけで、夜の闇も、月をのぼらせた空間も知らないままで満足しているほどの未完成な半分だけの世界だった。しかし、ぼくは彼女を悲しませるという罪から自由でいられた。もし、そんな災いを招くことを自分に許せば、その当時は耐えられなかったかもしれない。もちろん、ぼくはその後、別の女性の姿を借りて、何度も罪を犯す。だが、罪という言葉の定義や重さには到達しないだけではなく、充分な痛みも、罪悪感の欠けらもないほどのちっぽけな事柄であっただけなのだ。驚くことも当惑することもできない。たまには、泣きたいんだろう、とさえ突き放すように丸い背中に向かってぼくは不機嫌に思っていた。距離が限りなく遠い世界の、さらにはガラス越しの隔たった姿のように現実味にも乏しかった小刻みに揺れる背中たち。
あの当時ですら、手紙のやり取りをするような時代にもいない。同じ学校のときは、書かれたものを見たことがあるかもしれないが、そこには美もはにかみもなかった。ただの黒板の文字の丸写し。数式の記述。親しいというのは受けなかった授業のノートの交換であるならば、ぼくらは親しくない。同じ教室内に存在したこともないのだ。ふとした先生の言い間違いで同時に吹き出すこともできず、給食を食べられないぐらいに笑わすこともできなかった。もちろん、無神経なひとことで傷つけることもできない。ぼくの奥底にそうした小さな破壊に導く感情があることも誰にも発見されていない頃のことだった。だが、大陸が発見されたと年号で記憶されたとしても、そこには人々が既に存在していたのだ。ぼくが彼女だけを傷つけなかったとしても、無数にその前兆の風を友人には振り撒いて浴びせ、その後、異性にも同じ風は、簡単に万遍なく達した。
ぼくは彼女の声を思い出している。いや、思い出そうと努力している。録音機器もまわりにはあったし、映像をそのまま記録するカメラも世の中には出はじめていた。ぼくは、いくら高価だろうと、それを買っておくべきではなかったのだろうか。あるいは、親にでもねだって入手すべきことが絶対に必要不可欠だったのだろうか。ぼくは何ももっていない。後世に引っ張れない。縄の片方をつかんでいながら、もう片方には何も結ばれていなかった。ただ、いっしょにいた、もしくは電話で話した内容の記憶を時間の経過とともに薄まらせることに同意もなく加担していた。人間とはそういう生き物に過ぎないのだろう。
しかし、半分の世界ながらもぼくには短い貴重な昼の期間があった。それさえも与えられないことも考えられる。彼女が笑おうが泣こうが目の前にいることが、いちばん重要なことであった。感情の起伏が表面にでてこなくても、ぼくといっしょにいるという事実が、ありのままの好意だったのだ。彼女は電話で会う約束をすると軽やかに喜び、期間が空けば淋しそうな口調になった。簡単なありふれた証拠だった。ぼくは、このいくつかの勝利に似た小さな事実を大事にしようとしていた。埋もれていた小さなビー玉が地中から掘られ、外の空気に触れて淡く輝くようにぼくの記憶も世界一の輝きではないながらも、傷にも摩耗にも耐えながらもなんとか持続しようとしていた。ぼくの願わないところで勝手に埋まっていたのだが。
風呂の湯船の温度に敏感な身体でも、ぼくは彼女の手のひらの体温の差も気づかない。足先より劣る手のひらの感度。差に気付かないぐらいだから、一定の体温が保たれていたのだろう。高熱を発すれば、もちろん会うこともできない。そして、彼女の部屋でぼくは寝室の床にすわり看病することもできないのだ。病気を願っているわけでもないが、一度ぐらい、そうした機会があってもよかったのかもしれない。ぼくは自分の睡眠を削り、彼女に奉仕する。代償はいらない。いるとすれば、もう一度元気になってもらうだけだ。しかし、ぼくにはその資格はない。彼女の母は、いままでの間に数十回もしたはずだ。ぼくらが、ある年代のときにできることなど、いかに限られているのだろう。そこを突き抜けることは誰にも叶わなかった。
ぼくは無駄なことばかり考えているようだ。あの尊かった時間を、わずかでも伸ばせばよかっただけなのだ。別れる時間を毎回、一分ほど、いや、二分ずつ引き延ばすだけで、ぼくの思い出は増えるはずだった。だが、日没も日の出も、潮の干満も一切、変更ができないように、ぼくの力の及ぶ範囲のそとの話だった。
ぼくは月がある世界に行こうとする。
彼女はそこで泣き、ぼくの衣服の胸の部分が濡れる。ぼくはその涙を瓶に集め、空中にばら撒く。詩の世界なら、その粒は星となって、きれいにまたたき、闇夜を打消して輝くことだろう。彼女はどんな理由があって泣いているのだろう。家に帰るのが遅くなって注意される。ぼくは彼女といっしょにいたいと思いながらも、ある時間までに送り届けることをきちんと命令されたわけでもないのに厳守している。彼女はぼくのために叱られるべきではない。ぼくといることで満ち足り、美しくなってもらわなければならない。ぼくは、ひとりの女性のことを愛そうと思いながら、いまになって知らなかったことばかりで囲まれているのを認識し、その羅列を米粒に書き記すほどの熱心さで懸命になって励もうとしていた。ぼくは思い出すごとに彼女への記憶の影の部分を鮮明にして、その少ない記憶すら失おうとしていた。書けば消え、思い出せば反対の知らないことが膨らんでいった。
ぼくらはケンカをしなかった。だから、彼女が泣いた姿も、怒った素振りも容易に見ることができなかった。そのことは例えれば昼の世界にいるだけで、夜の闇も、月をのぼらせた空間も知らないままで満足しているほどの未完成な半分だけの世界だった。しかし、ぼくは彼女を悲しませるという罪から自由でいられた。もし、そんな災いを招くことを自分に許せば、その当時は耐えられなかったかもしれない。もちろん、ぼくはその後、別の女性の姿を借りて、何度も罪を犯す。だが、罪という言葉の定義や重さには到達しないだけではなく、充分な痛みも、罪悪感の欠けらもないほどのちっぽけな事柄であっただけなのだ。驚くことも当惑することもできない。たまには、泣きたいんだろう、とさえ突き放すように丸い背中に向かってぼくは不機嫌に思っていた。距離が限りなく遠い世界の、さらにはガラス越しの隔たった姿のように現実味にも乏しかった小刻みに揺れる背中たち。
あの当時ですら、手紙のやり取りをするような時代にもいない。同じ学校のときは、書かれたものを見たことがあるかもしれないが、そこには美もはにかみもなかった。ただの黒板の文字の丸写し。数式の記述。親しいというのは受けなかった授業のノートの交換であるならば、ぼくらは親しくない。同じ教室内に存在したこともないのだ。ふとした先生の言い間違いで同時に吹き出すこともできず、給食を食べられないぐらいに笑わすこともできなかった。もちろん、無神経なひとことで傷つけることもできない。ぼくの奥底にそうした小さな破壊に導く感情があることも誰にも発見されていない頃のことだった。だが、大陸が発見されたと年号で記憶されたとしても、そこには人々が既に存在していたのだ。ぼくが彼女だけを傷つけなかったとしても、無数にその前兆の風を友人には振り撒いて浴びせ、その後、異性にも同じ風は、簡単に万遍なく達した。
ぼくは彼女の声を思い出している。いや、思い出そうと努力している。録音機器もまわりにはあったし、映像をそのまま記録するカメラも世の中には出はじめていた。ぼくは、いくら高価だろうと、それを買っておくべきではなかったのだろうか。あるいは、親にでもねだって入手すべきことが絶対に必要不可欠だったのだろうか。ぼくは何ももっていない。後世に引っ張れない。縄の片方をつかんでいながら、もう片方には何も結ばれていなかった。ただ、いっしょにいた、もしくは電話で話した内容の記憶を時間の経過とともに薄まらせることに同意もなく加担していた。人間とはそういう生き物に過ぎないのだろう。
しかし、半分の世界ながらもぼくには短い貴重な昼の期間があった。それさえも与えられないことも考えられる。彼女が笑おうが泣こうが目の前にいることが、いちばん重要なことであった。感情の起伏が表面にでてこなくても、ぼくといっしょにいるという事実が、ありのままの好意だったのだ。彼女は電話で会う約束をすると軽やかに喜び、期間が空けば淋しそうな口調になった。簡単なありふれた証拠だった。ぼくは、このいくつかの勝利に似た小さな事実を大事にしようとしていた。埋もれていた小さなビー玉が地中から掘られ、外の空気に触れて淡く輝くようにぼくの記憶も世界一の輝きではないながらも、傷にも摩耗にも耐えながらもなんとか持続しようとしていた。ぼくの願わないところで勝手に埋まっていたのだが。
風呂の湯船の温度に敏感な身体でも、ぼくは彼女の手のひらの体温の差も気づかない。足先より劣る手のひらの感度。差に気付かないぐらいだから、一定の体温が保たれていたのだろう。高熱を発すれば、もちろん会うこともできない。そして、彼女の部屋でぼくは寝室の床にすわり看病することもできないのだ。病気を願っているわけでもないが、一度ぐらい、そうした機会があってもよかったのかもしれない。ぼくは自分の睡眠を削り、彼女に奉仕する。代償はいらない。いるとすれば、もう一度元気になってもらうだけだ。しかし、ぼくにはその資格はない。彼女の母は、いままでの間に数十回もしたはずだ。ぼくらが、ある年代のときにできることなど、いかに限られているのだろう。そこを突き抜けることは誰にも叶わなかった。
ぼくは無駄なことばかり考えているようだ。あの尊かった時間を、わずかでも伸ばせばよかっただけなのだ。別れる時間を毎回、一分ほど、いや、二分ずつ引き延ばすだけで、ぼくの思い出は増えるはずだった。だが、日没も日の出も、潮の干満も一切、変更ができないように、ぼくの力の及ぶ範囲のそとの話だった。
ぼくは月がある世界に行こうとする。
彼女はそこで泣き、ぼくの衣服の胸の部分が濡れる。ぼくはその涙を瓶に集め、空中にばら撒く。詩の世界なら、その粒は星となって、きれいにまたたき、闇夜を打消して輝くことだろう。彼女はどんな理由があって泣いているのだろう。家に帰るのが遅くなって注意される。ぼくは彼女といっしょにいたいと思いながらも、ある時間までに送り届けることをきちんと命令されたわけでもないのに厳守している。彼女はぼくのために叱られるべきではない。ぼくといることで満ち足り、美しくなってもらわなければならない。ぼくは、ひとりの女性のことを愛そうと思いながら、いまになって知らなかったことばかりで囲まれているのを認識し、その羅列を米粒に書き記すほどの熱心さで懸命になって励もうとしていた。ぼくは思い出すごとに彼女への記憶の影の部分を鮮明にして、その少ない記憶すら失おうとしていた。書けば消え、思い出せば反対の知らないことが膨らんでいった。