38歳-10
何をするでもなく、ぼくは原島さんの家でテレビを見ている。酔わなければ絵美となかなか言わなかった。たがが外れることが前提条件にある関係だったのだろう。その関係性を打破できないことに愛想をつかすかのように、ぼくはつまらないことを考えている。前の男性の名残はほとんどないのだが、もしかして、このグラスやカップや皿もその男性は使っていたのだという空想に近い事実を受け止めることを拒もうとした。しかし、実際は洗剤できちんと洗えば、新品同様になることも知っていた。指紋ひとつ残っていない。鑑識も見抜けないぐらいに。
テレビのなかでは前の結婚相手とのなれそめや顛末を若さを失いはじめた女性が語っていた。ぼくはその女性の数年前の華やかな状態が好きであったことを思い出していた。その経験が彼女の価値を増し加えることは決してなく、ここに映し出されている彼女は自分の魅力をあえて目減りさせているために励んでいるようだった。ぼくは、番組を変えてくれるよう絵美に頼んだ。
「おもしろくないの?」
「なんだか、哀れだよ」
「潔癖症。精神の」そう言いながらも絵美はリモコンを手にする。ぼくはグラスをつかむ。もしかして、これも・・・。
この地域に流されている番組を一巡しても見たいものがなかったので、結局、テレビの電源を消してしまった。絵美は代わりに音楽を流す。空間をなにかの音で埋めなければならない。外は強風なのか、風が窓にぶつかるような音がした。ぼくらはこの後、この部屋を一歩も出ないだろう。彼女はいつもの会社の周辺で会うような格好ではなく、部屋着を身に着けていた。「テロン」という表現にしか結びつかない布地だった。そのため、彼女の本来の肩のラインが浮かび上がり、胸のなだらかな膨らみもあらわになっていた。膝を抱えてすわっている。足首から足の爪の形状まで見える。ぼくはこうして外側だけを見ているのだ。彼女の蓄積した喜びや悔しさなども多くは知らない。涙をながしたあとになぐさめた男性もどこかにいるのだろう。もし、その男性の記憶が宙に舞っているようなことがあれば、ぼくは強くつかんで自分のものにするのだろうと、これまたどうでもよいことを考えていた。
「もっと、そばに来れば?」
彼女はそう言いながらも自分から寄り添ってきた。ぼくの肩に彼女の首がのる。見知らぬ誰かにされたら嫌悪感が生じることだってある行為なのだ。電車のとなりの席の見知らぬ誰か。酔った匂い。同じことでも、そのひとによって印象が変わる。ぼくの胸はかすかに高鳴る。もうガッツポーズをする年代でもない。男と女が同じ部屋にいれば当然の帰結なのだろう。彼女は決してひとりではいられない。たまたま、ぼくがこの部屋に入る資格を手に入れただけなのだ。ぼくは彼女の足首に近い部分のズボンの裾に触れる。手触りが心地いい。
「なにしてるの?」
「気持ち良さそうだなって」
同じことでも場所と相手によって罪に問われたりもする。それを決めるのは法律だ。いや、個人の裁量だ。いや、了承の結果次第なのだ。
絵美はリモコンでステレオの音量を小さくした。テーブルの上にはいくつかのリモコンが整然と並んでいた。離れた所からでもいろいろな変化を起こし、設定もできる。電池が残っていればの話だが。ぼくらは会い、印象を感じ取り、好悪を決め、決断をくだす。誤った決断もたくさんして、間違っていることを指摘されても突っ走って誤解を正当化させようともする。してきた。だが、大局から眺めてみれば、ぼくの成功も失敗もどれほどの価値もないのだ。消されてしまったテレビ番組や、先ほどの過去を切り売りする女性ぐらいの値打ちしかないのだ。離れていた相手を、生身の存在として受容して密着する。リモコンなど一切、介在させずに。価値というものを体系付けようとして。
しかし、絵美の魅力には疑うことのない価値があった。その証拠として、ついこの間までこの部屋を往き来していた男性がいたのだ。ぼくは後釜になる。後釜以外にぼくにはもう選択肢が残されていない。そして、後釜だって充分、魅力ある価値が充満していた。ぼくはその沼に足を自分から絡め取られるように意気込んで飛び込み、あえて溺れようとした。大人は、誰かといっしょにいるものだと思っていた子どものころの感情が無闇に内面から突き上がってきた。友人も必要だが、こころも身体も一致に近い状態にいられる異性が、このような夜のひとときに必要なのだと思っていた。そして、居なくなった誰かへの復讐として、あの女性はテレビに出ているのだろう。対価か見返りか、価値の目減りの損得に失敗したとしても果たすべきなにかのために。
「どういう格好で寝る?」
「このままの下着姿で」ぼくは嘘でもないことを言う。本当は下着もぼくから離れ床にあるのだ。
ぼくは翌朝、歯ブラシも必要になる。石鹸やシャンプーは代用が効く。ひげは一日ぐらい剃らなくてもなんとかなった。生きるということは思い出だけでは足りなく、実用的なものにかこまれて暮らさなければならない。定期もいる。財布もいる。もちろん、その中身だっている。だが、今夜ぐらいはすべてを忘れ、絵美という存在だけに没頭しようと思った。願いは完全に満たされそうでもあった。
何をするでもなく、ぼくは原島さんの家でテレビを見ている。酔わなければ絵美となかなか言わなかった。たがが外れることが前提条件にある関係だったのだろう。その関係性を打破できないことに愛想をつかすかのように、ぼくはつまらないことを考えている。前の男性の名残はほとんどないのだが、もしかして、このグラスやカップや皿もその男性は使っていたのだという空想に近い事実を受け止めることを拒もうとした。しかし、実際は洗剤できちんと洗えば、新品同様になることも知っていた。指紋ひとつ残っていない。鑑識も見抜けないぐらいに。
テレビのなかでは前の結婚相手とのなれそめや顛末を若さを失いはじめた女性が語っていた。ぼくはその女性の数年前の華やかな状態が好きであったことを思い出していた。その経験が彼女の価値を増し加えることは決してなく、ここに映し出されている彼女は自分の魅力をあえて目減りさせているために励んでいるようだった。ぼくは、番組を変えてくれるよう絵美に頼んだ。
「おもしろくないの?」
「なんだか、哀れだよ」
「潔癖症。精神の」そう言いながらも絵美はリモコンを手にする。ぼくはグラスをつかむ。もしかして、これも・・・。
この地域に流されている番組を一巡しても見たいものがなかったので、結局、テレビの電源を消してしまった。絵美は代わりに音楽を流す。空間をなにかの音で埋めなければならない。外は強風なのか、風が窓にぶつかるような音がした。ぼくらはこの後、この部屋を一歩も出ないだろう。彼女はいつもの会社の周辺で会うような格好ではなく、部屋着を身に着けていた。「テロン」という表現にしか結びつかない布地だった。そのため、彼女の本来の肩のラインが浮かび上がり、胸のなだらかな膨らみもあらわになっていた。膝を抱えてすわっている。足首から足の爪の形状まで見える。ぼくはこうして外側だけを見ているのだ。彼女の蓄積した喜びや悔しさなども多くは知らない。涙をながしたあとになぐさめた男性もどこかにいるのだろう。もし、その男性の記憶が宙に舞っているようなことがあれば、ぼくは強くつかんで自分のものにするのだろうと、これまたどうでもよいことを考えていた。
「もっと、そばに来れば?」
彼女はそう言いながらも自分から寄り添ってきた。ぼくの肩に彼女の首がのる。見知らぬ誰かにされたら嫌悪感が生じることだってある行為なのだ。電車のとなりの席の見知らぬ誰か。酔った匂い。同じことでも、そのひとによって印象が変わる。ぼくの胸はかすかに高鳴る。もうガッツポーズをする年代でもない。男と女が同じ部屋にいれば当然の帰結なのだろう。彼女は決してひとりではいられない。たまたま、ぼくがこの部屋に入る資格を手に入れただけなのだ。ぼくは彼女の足首に近い部分のズボンの裾に触れる。手触りが心地いい。
「なにしてるの?」
「気持ち良さそうだなって」
同じことでも場所と相手によって罪に問われたりもする。それを決めるのは法律だ。いや、個人の裁量だ。いや、了承の結果次第なのだ。
絵美はリモコンでステレオの音量を小さくした。テーブルの上にはいくつかのリモコンが整然と並んでいた。離れた所からでもいろいろな変化を起こし、設定もできる。電池が残っていればの話だが。ぼくらは会い、印象を感じ取り、好悪を決め、決断をくだす。誤った決断もたくさんして、間違っていることを指摘されても突っ走って誤解を正当化させようともする。してきた。だが、大局から眺めてみれば、ぼくの成功も失敗もどれほどの価値もないのだ。消されてしまったテレビ番組や、先ほどの過去を切り売りする女性ぐらいの値打ちしかないのだ。離れていた相手を、生身の存在として受容して密着する。リモコンなど一切、介在させずに。価値というものを体系付けようとして。
しかし、絵美の魅力には疑うことのない価値があった。その証拠として、ついこの間までこの部屋を往き来していた男性がいたのだ。ぼくは後釜になる。後釜以外にぼくにはもう選択肢が残されていない。そして、後釜だって充分、魅力ある価値が充満していた。ぼくはその沼に足を自分から絡め取られるように意気込んで飛び込み、あえて溺れようとした。大人は、誰かといっしょにいるものだと思っていた子どものころの感情が無闇に内面から突き上がってきた。友人も必要だが、こころも身体も一致に近い状態にいられる異性が、このような夜のひとときに必要なのだと思っていた。そして、居なくなった誰かへの復讐として、あの女性はテレビに出ているのだろう。対価か見返りか、価値の目減りの損得に失敗したとしても果たすべきなにかのために。
「どういう格好で寝る?」
「このままの下着姿で」ぼくは嘘でもないことを言う。本当は下着もぼくから離れ床にあるのだ。
ぼくは翌朝、歯ブラシも必要になる。石鹸やシャンプーは代用が効く。ひげは一日ぐらい剃らなくてもなんとかなった。生きるということは思い出だけでは足りなく、実用的なものにかこまれて暮らさなければならない。定期もいる。財布もいる。もちろん、その中身だっている。だが、今夜ぐらいはすべてを忘れ、絵美という存在だけに没頭しようと思った。願いは完全に満たされそうでもあった。