27歳-11
ぼくは会社の用件で伺ったので、請求書を希美に手渡し、そのまま直ぐに帰る予定だった。どこかで待ち合わせて、ふたりで会おうともしていた。だが、思い通りにはいかず、その流れで希美の職場のメンバーと食事をすることになった。ぼくらの交際はまだ知れ渡っていない。どちらの社内のことにも無頓着であったが、別にばれたからといって困った状況になる訳でもなかった。こうしたことはすべてタイミングにかかっている。言いそびれたことは、いつまで経っても言いそびれたというレッテルを貼られて機能する。つい、うっかりとした失言をするひとは、いくら無口になっても、お調子者という役割を以後つかまされることになる。ひとは一度、してしまった判断をあえて覆そうとは努力しない。ぼくは寡黙に自分の業務だけをして、顧客のために愛想をつかうタイプでもないらしい。ある店で打ち解けていく段になって、そうやんわりと言われた。
「国代さん、誰かと付き合ってないの?」希美よりいくつか先輩らしい女性がそう率直に質問を投げかけてきた。
「どうなんでしょう」ぼくはあいまいな返事に終始しようと大して考えもなく決めていた。
「どうでしょうって、自分のことなのに。希美ちゃんなんか、どうなの?」ぼくは、その女性と希美のことを交互に見つめた。「希美ちゃんのこと、下の名前も知ってるんだ? 見たぐらいだから。目は口ほどに・・・ね」
「だって、名刺にも書いてあるし、それにお客様だから」
「前の担当者のことは、いつまで経っても覚えなかったのに」
「そうでしたっけ」奥の席にそのひともいた。静かにすわっている。趣味も家族構成もまったく知らない。仕事で付き合うだけの間柄だから。そこに感情が入る余地はなかった。あえて、いれる類いのことでもない。高速道路の料金所で働く男性の座右の銘など知らないのと同じく。
「希美ちゃんは、どうなの?」
「どうなのって?」希美の白い顔は、いくぶんか染まっていくようだった。
「満更でもない。でも、満更って何かしらね?」その女性はこの場の主導権を一手に握っていた。自分の口から出た言葉も直後に関心をなくして次々と興味のあることに移っていった。そういうひとの例に漏れない如くに視線も忙しく動いていた。ご多分に漏れず。ご多分って、何だ?
「あ、店員さんが来た。ねえ、お兄さん、このピザのお皿を下げてね」
ぼくは希美の恥ずかし気な態度を注視しないよう気を遣い、ひざの上のメニューを見ていた。
「国代くん、もっと食べてね。業績が良いのはそちらの会社のお陰なんだから」
先輩にもてば、これほど頼りになり、同時に厄介にもなりそうな女性はいそうになかった。ぼくは自分の職場内で似たようなひとを探した。とくに見当たらない。ならば学生のときに? しかし、若いときにこういう風格を身に着けることは女性にとって減点になりそうだった。希美を見ると、いつものような肌の色になっていた。それでもお酒によるのか、まだ紅さが肌の薄さの奥底から自然と浮き上がってくるようだった。そして、今後も居直るような風格を希美は身に着けることはないだろうとぼくは予想した。同じ会社にふたりもいらない。
ぼくのグラスは空く前から次のビールが注文されていた。先にひとりで帰ることも許されそうになかった。テレビ番組の録画のことを考え、自分が予約の準備したのかどうかも、もう思い出せなかった。そこにいなくても見られる番組。過去に愛した女性は、もうどこにいるのかも分からないのに。
ぼくはトイレに立つ。途中の通路で希美とすれ違った。
「ごめんね、急にこんな立場にならせてしまって」
「いいよ、希美は大丈夫?」
「平気だけど。明日、質問攻めに遭うのがこわいな」
「なんか、できること、言っておくことがあれば、直ぐにするよ」
「大丈夫、大丈夫。ほら、もう次の獲物を見つけているから」
ぼくらがいた席から歓声がきこえる。希美はそこに戻り、ぼくはトイレの扉を押した。洗面所の鏡には赤い顔があった。それは照れという要素ではできていない色だった。ただのビールの飲み過ぎ。証拠の空のグラスたち。しかし、来月から仕事がはかどりやすくなりそうなのは事実だったし、希美がどのような環境で働いているのか又聞きではなく具体的なものが見られたので、とても良かった。
席にもどると八割ほどがもう消えていた。ぼくは二軒目にも付き合わされ、「いっしょに帰りな、こうして」と言われて先ほどの女性にむりやり希美と手を握らされる形になった。
ぼくらは角を曲がるまで命令に背くのがこわいかのようにそのままの状態を保った。でも、彼女の視線が消えても手を離す理由も必要性も感じないでいた。でも、世界にはあらゆる目が隅々まで網羅されているらしい。翌日、希美の振る舞いはうわさになっており、自分の弁護もできない彼女はとうとう白状した。最初の店だけで帰ったはずの同僚が、あの角の先に偶然にもいたのだった。酔い覚ましのコーヒーを飲んでいたのか、甘いケーキが食べたいタイプなのか分からないが。
「あの時に、なぜ、もっと、早く言わないのかと思ってたのに。国代くんは意気地も度胸もないのね」と、希美は責任の一端を負わされていた。それでも、希美はその疑惑に抵抗し、ぼくの男らしさを述べ立てたらしい。ぼくはその話を電話で聞き、見抜くことに長けた目というものが確実に存在することを知った。存在を確認して、あらためて怖さが倍増することも世の中には多々あった。
ぼくは会社の用件で伺ったので、請求書を希美に手渡し、そのまま直ぐに帰る予定だった。どこかで待ち合わせて、ふたりで会おうともしていた。だが、思い通りにはいかず、その流れで希美の職場のメンバーと食事をすることになった。ぼくらの交際はまだ知れ渡っていない。どちらの社内のことにも無頓着であったが、別にばれたからといって困った状況になる訳でもなかった。こうしたことはすべてタイミングにかかっている。言いそびれたことは、いつまで経っても言いそびれたというレッテルを貼られて機能する。つい、うっかりとした失言をするひとは、いくら無口になっても、お調子者という役割を以後つかまされることになる。ひとは一度、してしまった判断をあえて覆そうとは努力しない。ぼくは寡黙に自分の業務だけをして、顧客のために愛想をつかうタイプでもないらしい。ある店で打ち解けていく段になって、そうやんわりと言われた。
「国代さん、誰かと付き合ってないの?」希美よりいくつか先輩らしい女性がそう率直に質問を投げかけてきた。
「どうなんでしょう」ぼくはあいまいな返事に終始しようと大して考えもなく決めていた。
「どうでしょうって、自分のことなのに。希美ちゃんなんか、どうなの?」ぼくは、その女性と希美のことを交互に見つめた。「希美ちゃんのこと、下の名前も知ってるんだ? 見たぐらいだから。目は口ほどに・・・ね」
「だって、名刺にも書いてあるし、それにお客様だから」
「前の担当者のことは、いつまで経っても覚えなかったのに」
「そうでしたっけ」奥の席にそのひともいた。静かにすわっている。趣味も家族構成もまったく知らない。仕事で付き合うだけの間柄だから。そこに感情が入る余地はなかった。あえて、いれる類いのことでもない。高速道路の料金所で働く男性の座右の銘など知らないのと同じく。
「希美ちゃんは、どうなの?」
「どうなのって?」希美の白い顔は、いくぶんか染まっていくようだった。
「満更でもない。でも、満更って何かしらね?」その女性はこの場の主導権を一手に握っていた。自分の口から出た言葉も直後に関心をなくして次々と興味のあることに移っていった。そういうひとの例に漏れない如くに視線も忙しく動いていた。ご多分に漏れず。ご多分って、何だ?
「あ、店員さんが来た。ねえ、お兄さん、このピザのお皿を下げてね」
ぼくは希美の恥ずかし気な態度を注視しないよう気を遣い、ひざの上のメニューを見ていた。
「国代くん、もっと食べてね。業績が良いのはそちらの会社のお陰なんだから」
先輩にもてば、これほど頼りになり、同時に厄介にもなりそうな女性はいそうになかった。ぼくは自分の職場内で似たようなひとを探した。とくに見当たらない。ならば学生のときに? しかし、若いときにこういう風格を身に着けることは女性にとって減点になりそうだった。希美を見ると、いつものような肌の色になっていた。それでもお酒によるのか、まだ紅さが肌の薄さの奥底から自然と浮き上がってくるようだった。そして、今後も居直るような風格を希美は身に着けることはないだろうとぼくは予想した。同じ会社にふたりもいらない。
ぼくのグラスは空く前から次のビールが注文されていた。先にひとりで帰ることも許されそうになかった。テレビ番組の録画のことを考え、自分が予約の準備したのかどうかも、もう思い出せなかった。そこにいなくても見られる番組。過去に愛した女性は、もうどこにいるのかも分からないのに。
ぼくはトイレに立つ。途中の通路で希美とすれ違った。
「ごめんね、急にこんな立場にならせてしまって」
「いいよ、希美は大丈夫?」
「平気だけど。明日、質問攻めに遭うのがこわいな」
「なんか、できること、言っておくことがあれば、直ぐにするよ」
「大丈夫、大丈夫。ほら、もう次の獲物を見つけているから」
ぼくらがいた席から歓声がきこえる。希美はそこに戻り、ぼくはトイレの扉を押した。洗面所の鏡には赤い顔があった。それは照れという要素ではできていない色だった。ただのビールの飲み過ぎ。証拠の空のグラスたち。しかし、来月から仕事がはかどりやすくなりそうなのは事実だったし、希美がどのような環境で働いているのか又聞きではなく具体的なものが見られたので、とても良かった。
席にもどると八割ほどがもう消えていた。ぼくは二軒目にも付き合わされ、「いっしょに帰りな、こうして」と言われて先ほどの女性にむりやり希美と手を握らされる形になった。
ぼくらは角を曲がるまで命令に背くのがこわいかのようにそのままの状態を保った。でも、彼女の視線が消えても手を離す理由も必要性も感じないでいた。でも、世界にはあらゆる目が隅々まで網羅されているらしい。翌日、希美の振る舞いはうわさになっており、自分の弁護もできない彼女はとうとう白状した。最初の店だけで帰ったはずの同僚が、あの角の先に偶然にもいたのだった。酔い覚ましのコーヒーを飲んでいたのか、甘いケーキが食べたいタイプなのか分からないが。
「あの時に、なぜ、もっと、早く言わないのかと思ってたのに。国代くんは意気地も度胸もないのね」と、希美は責任の一端を負わされていた。それでも、希美はその疑惑に抵抗し、ぼくの男らしさを述べ立てたらしい。ぼくはその話を電話で聞き、見抜くことに長けた目というものが確実に存在することを知った。存在を確認して、あらためて怖さが倍増することも世の中には多々あった。