38歳-12
ぼくは鏡面のように真っ平らに削られた固い石のうえに座り、通勤カバンから文庫本を取り出した。しおりが挟まれているのは本の厚みの後ろに近い。絵美を待っている間に、残りを読み終えられるかどうか考えた。ふと何気なく最終ページをめくると、そこに希美の特徴的な文字で名前と、読み終えたであろう日付が鉛筆で記されていた。文字はかすれていた。紙も真っ白とはいえず、黄ばみが急に感じられたようだ。退色。色があせるとはこのような状態なのだろう。きっと。だが、ぼくは反対に鮮明に彼女の姿が戻ってくるのを実感していた。
ぼくは、この本を彼女に貸したことも忘れていた。家の本棚から数日前に取り出して、また読み直そうと決意しただけだった。その前に電波の悪いラジオでこの本が紹介されているのを耳にして、ふたたび読む気になったのだ。ぼくは支離滅裂に浮かび上がる希美の一貫性のない姿をいったん忘れ、集中力を取り戻してつづきを読もうとしたが、なかなかはかどらなかった。彼女に貸したことはおぼろげながら思い出せそうだったが、返してもらった日と状況はまったくぼくの頭のなかから抜けていた。いかに、自分は多くのことを忘れてきたのだろうと、わざと考え深げに腕を組み、なつかしもうとした。だが、なつかしむということにも具体的な取っ掛かりが必要であり、その指先をかけられる部分がぼくのなかには残っていない事実にもあきれていた。ぼくは別の機会の希美の姿で充当しようと、こころのなかの残像のいくつかをパズルのように素早く組み合わせた。彼女はこの本の感想を言ったはずだ。ぼくは、もうその感想を空想の力に頼り、創作するしかなかった。そうしている間に絵美がやってきた。ぼくはしおりを元あったところから次のページに移行しただけで終わった。時間があったのに、やっと一ページ。効率が悪い。しかし、ぼくはまだどれだけの本を読まなければならないのだろう。
「どうしたの? 顔色悪くない?」と言ってぼくの肩の辺りを優しくたたいた。女性に示される愛情というのは究極的にこの柔らかな接触に尽きるのだろうか。
「そうかな?」十一年前の日付け。十一年前の笑顔。それがぼくの上空を雨雲のように覆っていた。その世界は潤っていた。
「何の本?」ぼくは背表紙を見せる。「おもしろい?」
「まあまあね」
「終わったら、借りてもいい?」
「同じの買ってあげるよ」
「どうして? ここに、あるのに・・・」
「もう古くて、汚れているから」
「古い本の匂い、好きなんだもん」絵美はそういうと背表紙に鼻を近づけた。
ぼくは読み終えることをためらう。もともと古本だと言って、名前や日付けも無視することは簡単だった。ぼくは希美などという架空の所有者のことを知らない。希美という名前の女性が直前にもっていたが読み終えたので売っただけだ。つながりなどない。さらには鉛筆での筆跡なので、消し去ることも容易そうだった。だが、ぼくはゴムでその文字をこすることを躊躇していた。彼女の写真はどこかに残っているのかもしれないが、文字となると話は別だ。ぼくは、彼女の書き記したものをすべて燃やしてしまったような記憶がある。すると、この数文字のみが、彼女のくせのある筆跡の名残りで、ぼくにとってだけ貴重なものだった。
「変な趣味」ぼくは、半ばあきれた声で突き放すように言った。
「変なにおいって、どこかなつかしげだよ。なんか、あるでしょう、好きな匂い?」
ぼくは通勤カバンに本をしまって返事を探した。カバンのなかに希美がいた。ただの名前。また名前を媒介にして想起される思い出たち。ぼくのなかでゆっくりと穏やかに眠っていたはずの記憶が無理に揺り起こされてしまった。
「普通にラベンダーとか」
「ロマンチック。でも、違うよ、変だけど好きだということ」
「新聞に挟まれたつやつやした紙の広告の匂い」
「どんなだっけ?」
絵美は鼻を上空に向ける。そこに対象物があるように。そして、目をつぶっていた。ぼくはカバンのなかに希美を入れている。ぼくはこのさわやかな夜へとつづくひとときを甘美に思いながら、台無しにすることも簡単なことだと認識していた。過去の重大さに気づいた自分は、同時に、未来の閉そく性を打破することも望んでいた。ぼくは壁を破る。ぼくの片手には絵美の手がしっかりと握られているべきだ。ぼくはその手を離せば、未来を失うのかもしれない。
「お店、着いたよ。いい匂い」
店の外に通じている大きな換気扇から香ばしい料理やスパイスの匂いが自由に放たれていた。まるで意思があるかのように、ぼくらの鼻腔をくすぐって、食欲をつかさどる中枢を刺激した。ぼくはふとしたささいなことで充分、中枢などは刺激されることを今日だけでも感じていた。ぼくに意思はなく、過去の記憶に主導権があり、思う存分、デタラメにぼくを運び去ってしまう。ぼくは無抵抗であることを願い、連れ去られた捕虜以上にコントロールできない境遇を、意に反して歓迎してもいた。
ぼくらはメニューの文字を読む。手書きで暖かな筆跡だった。右はじにある値段もいくらか割高だったが、その記された数字もどこか滑稽で、そのために現実味を忘れさせるほど、優しく暖かだった。
ぼくは鏡面のように真っ平らに削られた固い石のうえに座り、通勤カバンから文庫本を取り出した。しおりが挟まれているのは本の厚みの後ろに近い。絵美を待っている間に、残りを読み終えられるかどうか考えた。ふと何気なく最終ページをめくると、そこに希美の特徴的な文字で名前と、読み終えたであろう日付が鉛筆で記されていた。文字はかすれていた。紙も真っ白とはいえず、黄ばみが急に感じられたようだ。退色。色があせるとはこのような状態なのだろう。きっと。だが、ぼくは反対に鮮明に彼女の姿が戻ってくるのを実感していた。
ぼくは、この本を彼女に貸したことも忘れていた。家の本棚から数日前に取り出して、また読み直そうと決意しただけだった。その前に電波の悪いラジオでこの本が紹介されているのを耳にして、ふたたび読む気になったのだ。ぼくは支離滅裂に浮かび上がる希美の一貫性のない姿をいったん忘れ、集中力を取り戻してつづきを読もうとしたが、なかなかはかどらなかった。彼女に貸したことはおぼろげながら思い出せそうだったが、返してもらった日と状況はまったくぼくの頭のなかから抜けていた。いかに、自分は多くのことを忘れてきたのだろうと、わざと考え深げに腕を組み、なつかしもうとした。だが、なつかしむということにも具体的な取っ掛かりが必要であり、その指先をかけられる部分がぼくのなかには残っていない事実にもあきれていた。ぼくは別の機会の希美の姿で充当しようと、こころのなかの残像のいくつかをパズルのように素早く組み合わせた。彼女はこの本の感想を言ったはずだ。ぼくは、もうその感想を空想の力に頼り、創作するしかなかった。そうしている間に絵美がやってきた。ぼくはしおりを元あったところから次のページに移行しただけで終わった。時間があったのに、やっと一ページ。効率が悪い。しかし、ぼくはまだどれだけの本を読まなければならないのだろう。
「どうしたの? 顔色悪くない?」と言ってぼくの肩の辺りを優しくたたいた。女性に示される愛情というのは究極的にこの柔らかな接触に尽きるのだろうか。
「そうかな?」十一年前の日付け。十一年前の笑顔。それがぼくの上空を雨雲のように覆っていた。その世界は潤っていた。
「何の本?」ぼくは背表紙を見せる。「おもしろい?」
「まあまあね」
「終わったら、借りてもいい?」
「同じの買ってあげるよ」
「どうして? ここに、あるのに・・・」
「もう古くて、汚れているから」
「古い本の匂い、好きなんだもん」絵美はそういうと背表紙に鼻を近づけた。
ぼくは読み終えることをためらう。もともと古本だと言って、名前や日付けも無視することは簡単だった。ぼくは希美などという架空の所有者のことを知らない。希美という名前の女性が直前にもっていたが読み終えたので売っただけだ。つながりなどない。さらには鉛筆での筆跡なので、消し去ることも容易そうだった。だが、ぼくはゴムでその文字をこすることを躊躇していた。彼女の写真はどこかに残っているのかもしれないが、文字となると話は別だ。ぼくは、彼女の書き記したものをすべて燃やしてしまったような記憶がある。すると、この数文字のみが、彼女のくせのある筆跡の名残りで、ぼくにとってだけ貴重なものだった。
「変な趣味」ぼくは、半ばあきれた声で突き放すように言った。
「変なにおいって、どこかなつかしげだよ。なんか、あるでしょう、好きな匂い?」
ぼくは通勤カバンに本をしまって返事を探した。カバンのなかに希美がいた。ただの名前。また名前を媒介にして想起される思い出たち。ぼくのなかでゆっくりと穏やかに眠っていたはずの記憶が無理に揺り起こされてしまった。
「普通にラベンダーとか」
「ロマンチック。でも、違うよ、変だけど好きだということ」
「新聞に挟まれたつやつやした紙の広告の匂い」
「どんなだっけ?」
絵美は鼻を上空に向ける。そこに対象物があるように。そして、目をつぶっていた。ぼくはカバンのなかに希美を入れている。ぼくはこのさわやかな夜へとつづくひとときを甘美に思いながら、台無しにすることも簡単なことだと認識していた。過去の重大さに気づいた自分は、同時に、未来の閉そく性を打破することも望んでいた。ぼくは壁を破る。ぼくの片手には絵美の手がしっかりと握られているべきだ。ぼくはその手を離せば、未来を失うのかもしれない。
「お店、着いたよ。いい匂い」
店の外に通じている大きな換気扇から香ばしい料理やスパイスの匂いが自由に放たれていた。まるで意思があるかのように、ぼくらの鼻腔をくすぐって、食欲をつかさどる中枢を刺激した。ぼくはふとしたささいなことで充分、中枢などは刺激されることを今日だけでも感じていた。ぼくに意思はなく、過去の記憶に主導権があり、思う存分、デタラメにぼくを運び去ってしまう。ぼくは無抵抗であることを願い、連れ去られた捕虜以上にコントロールできない境遇を、意に反して歓迎してもいた。
ぼくらはメニューの文字を読む。手書きで暖かな筆跡だった。右はじにある値段もいくらか割高だったが、その記された数字もどこか滑稽で、そのために現実味を忘れさせるほど、優しく暖かだった。