38歳-9
原島さんと交際相手は些細なケンカをして、関係は密着度を失い、そもそもどれほど緊密であったのかはぼくの問題でもなかったのだが、隙間がのこってしまったらしい。そのつかず離れずの状態が一日一日と伸び、穴埋めも修復の改善も望まないので、あるいは面倒なので連絡を取っていなかった。ぼくは自分が粘着質でできているように思えていた。交際相手は紙の付箋をはがすように原島さんとの関係を終わらせたいのだろうか。もっと終わる過程の破壊をぼくは熱望していた。だが、きちんと過去を考えれば、そうしてもこなかったらしい。原島さんの彼のように簡単な解決に頼ることが相応しいのかもしれない。
例えていえば、ぼくらの関係性も直ぐに変わってはいかなかった。原島さんの運転する車の後部座席にぼくはたまに乗り込んでいるぐらいだったのが、助手席が空いたのでそこに座れることもできた。かといって定位置になったわけでもない。猫が塀の上に優雅に寝ていたからといって、そこに所有権がないのと同じぐらいに仮の住処だった。安住の場所ではない。だが、いまのぼくは安住を要望することもなかった。たまたま横にいるだけ。たまたま知り合いになっただけ。それを継続させるのも中断させてしまうのも、そう大きな違いはなかった。寝ても覚めても誰か一人のことを考えつづけることなど、自分の能力の所為なのか分からないが、とにかく、不可能だった。
不可能でも甘みも旨味もある。女性一般のことなど知らないが、彼女は誰かといっしょにいたがった。ぼくはこの日から彼女を絵美と呼んだ。原島絵美。ぼくは音でも文字でも、彼女の姿を想像することができる。
ぼくらは食事を終え、誘い会ったわけでもないが、次の店に行き、彼女のつい身近な過去の関係のいきさつを聞いた。終わってもいないが、終わりは間近である。悲しみもなければ解放感もない。彼女は着なくなったタンスのなかの洋服のことを話したとしても同じような口調とトーンであっただろう。彼女は靴を半分ほど脱ぎ、足先でブラブラとさせている。そのこと自体がいま話していることの象徴のようであった。脱ぎもしないし、きちんとかかとまで納まってもいない。
「でも、絵美のところに連絡があったら、どうするの?」ぼくは、ここではじめて絵美という呼び名を使ったようにも思う。
「さあ、相手の態度や出方や口調じゃない」
「柔道の組み方の話しみたいだね」彼女は笑い、その後、ぼくの襟元を軽くつかんだ。さらに揺さぶるような仕草をした。ぼくは彼女の細い腕に降参の合図のように二度ほど自分の手の平で叩いた。
「参った?」
「参ったよ。となりのひとも笑ってるし」
絵美は、ぼくの肩越しにそのひとに笑いかけた。彼女は境界線というものを作らないらしい。だから、ぼくの本気度合いも薄まってしまうのだろうか。このひとを独占しているという誤解がつくる自分への摩擦を軽減させて、そして、及び腰を正当化させようと計っているのだろうか。だが、酔いも昂じて回答も必要なくなる時間だった。
「国代さんの家の中、見せてよ」
「これから?」
「これからだよ。なに、その覚めた言い方・・・」彼女はまた店の外でぼくの襟をつかんだ。普段のきちんとしている様子は脱ぎ捨て、闘争心を燃え立たせている格闘家のような態度になった。それもぼくにとって悪いことではなかった。恵まれた瞬間でもあった。
実際に家の中を観に来たわけでもない。ぼくらは大人なのだ。服を無造作に投げ捨てる。準備も下ごしらえもない。生命の根源の欲望は、歯止めとなるものを捨て去ることなのだ。捨てたから逆に得られる。捨てないとなにも戻ってこなかった。
「やっぱり、前の関係、終わりにするよ」原島絵美は、自分に言ったのか、やはり、ぼくの耳に聞こえるように言ったのか分からないまま、そう口から告げた。だからといって、ぼくとの密な関係は望んでいないようだった。ぼくのような人間が数人、彼女のそばにはいるのかもしれない。ぼくは嫉妬というものがないと思いたかった。しかし、その感情は根絶というものに近寄っているとも感じていた。根絶するからには絶対的な意味であった。目を向けないようにしようとも考えられた。それを完全になくすためには、ぼくがひとりで楽しんでいる時間も放棄する必要があるのだろう。だが、ぼくはその放棄するものに、大きな価値がないことも知っていた。さらには、彼女はもっと大きなものを与えてくれるだろう。ぼくは自分が大人になりすぎてしまったことを恥じていた。女性など、もしかしたらぼくの前で服など脱ぐべきではなかったのだ。彼女は洗面所に立つ。音をさせないように爪先立ちで歩いている。もしかしたら、その歩き方も単純に彼女の癖であるのかもしれない。ぼくはカーテンを薄めに開け、街灯の明かりか、月の満ち欠けか、それとも、翌朝の朝日の未熟な勢いを探そうとしていた。ぼくは、絵美と呼びかけようとして、「希美」と間違って言ってしまっていた。
「え?」と、彼女は訊き返す。
「君は原島絵美」とぼくの口は言う。
彼女は飛び掛かるようにベッドに寝そべっているぼくの上に乗った。重さは大してない。もっと重いものであったらとぼくは願っていた。自由も奪われてしまうほどの重みだったら、ぼくの判断も簡単なものなのだ。
原島さんと交際相手は些細なケンカをして、関係は密着度を失い、そもそもどれほど緊密であったのかはぼくの問題でもなかったのだが、隙間がのこってしまったらしい。そのつかず離れずの状態が一日一日と伸び、穴埋めも修復の改善も望まないので、あるいは面倒なので連絡を取っていなかった。ぼくは自分が粘着質でできているように思えていた。交際相手は紙の付箋をはがすように原島さんとの関係を終わらせたいのだろうか。もっと終わる過程の破壊をぼくは熱望していた。だが、きちんと過去を考えれば、そうしてもこなかったらしい。原島さんの彼のように簡単な解決に頼ることが相応しいのかもしれない。
例えていえば、ぼくらの関係性も直ぐに変わってはいかなかった。原島さんの運転する車の後部座席にぼくはたまに乗り込んでいるぐらいだったのが、助手席が空いたのでそこに座れることもできた。かといって定位置になったわけでもない。猫が塀の上に優雅に寝ていたからといって、そこに所有権がないのと同じぐらいに仮の住処だった。安住の場所ではない。だが、いまのぼくは安住を要望することもなかった。たまたま横にいるだけ。たまたま知り合いになっただけ。それを継続させるのも中断させてしまうのも、そう大きな違いはなかった。寝ても覚めても誰か一人のことを考えつづけることなど、自分の能力の所為なのか分からないが、とにかく、不可能だった。
不可能でも甘みも旨味もある。女性一般のことなど知らないが、彼女は誰かといっしょにいたがった。ぼくはこの日から彼女を絵美と呼んだ。原島絵美。ぼくは音でも文字でも、彼女の姿を想像することができる。
ぼくらは食事を終え、誘い会ったわけでもないが、次の店に行き、彼女のつい身近な過去の関係のいきさつを聞いた。終わってもいないが、終わりは間近である。悲しみもなければ解放感もない。彼女は着なくなったタンスのなかの洋服のことを話したとしても同じような口調とトーンであっただろう。彼女は靴を半分ほど脱ぎ、足先でブラブラとさせている。そのこと自体がいま話していることの象徴のようであった。脱ぎもしないし、きちんとかかとまで納まってもいない。
「でも、絵美のところに連絡があったら、どうするの?」ぼくは、ここではじめて絵美という呼び名を使ったようにも思う。
「さあ、相手の態度や出方や口調じゃない」
「柔道の組み方の話しみたいだね」彼女は笑い、その後、ぼくの襟元を軽くつかんだ。さらに揺さぶるような仕草をした。ぼくは彼女の細い腕に降参の合図のように二度ほど自分の手の平で叩いた。
「参った?」
「参ったよ。となりのひとも笑ってるし」
絵美は、ぼくの肩越しにそのひとに笑いかけた。彼女は境界線というものを作らないらしい。だから、ぼくの本気度合いも薄まってしまうのだろうか。このひとを独占しているという誤解がつくる自分への摩擦を軽減させて、そして、及び腰を正当化させようと計っているのだろうか。だが、酔いも昂じて回答も必要なくなる時間だった。
「国代さんの家の中、見せてよ」
「これから?」
「これからだよ。なに、その覚めた言い方・・・」彼女はまた店の外でぼくの襟をつかんだ。普段のきちんとしている様子は脱ぎ捨て、闘争心を燃え立たせている格闘家のような態度になった。それもぼくにとって悪いことではなかった。恵まれた瞬間でもあった。
実際に家の中を観に来たわけでもない。ぼくらは大人なのだ。服を無造作に投げ捨てる。準備も下ごしらえもない。生命の根源の欲望は、歯止めとなるものを捨て去ることなのだ。捨てたから逆に得られる。捨てないとなにも戻ってこなかった。
「やっぱり、前の関係、終わりにするよ」原島絵美は、自分に言ったのか、やはり、ぼくの耳に聞こえるように言ったのか分からないまま、そう口から告げた。だからといって、ぼくとの密な関係は望んでいないようだった。ぼくのような人間が数人、彼女のそばにはいるのかもしれない。ぼくは嫉妬というものがないと思いたかった。しかし、その感情は根絶というものに近寄っているとも感じていた。根絶するからには絶対的な意味であった。目を向けないようにしようとも考えられた。それを完全になくすためには、ぼくがひとりで楽しんでいる時間も放棄する必要があるのだろう。だが、ぼくはその放棄するものに、大きな価値がないことも知っていた。さらには、彼女はもっと大きなものを与えてくれるだろう。ぼくは自分が大人になりすぎてしまったことを恥じていた。女性など、もしかしたらぼくの前で服など脱ぐべきではなかったのだ。彼女は洗面所に立つ。音をさせないように爪先立ちで歩いている。もしかしたら、その歩き方も単純に彼女の癖であるのかもしれない。ぼくはカーテンを薄めに開け、街灯の明かりか、月の満ち欠けか、それとも、翌朝の朝日の未熟な勢いを探そうとしていた。ぼくは、絵美と呼びかけようとして、「希美」と間違って言ってしまっていた。
「え?」と、彼女は訊き返す。
「君は原島絵美」とぼくの口は言う。
彼女は飛び掛かるようにベッドに寝そべっているぼくの上に乗った。重さは大してない。もっと重いものであったらとぼくは願っていた。自由も奪われてしまうほどの重みだったら、ぼくの判断も簡単なものなのだ。