27歳-12
ぼくは無数の本を読んだ。それでいながら何も理解できていないのは、十一年前と同じだった。およそ千冊の本は視力だけを無慈悲に奪い、内容を正確に思い出せるのも、どれだけの量の本の中身なのか皆目見当がつかなかった。設定したぼくのゴール自体も不鮮明になり、道中の足もともおぼつかなかった。生きるということは身の丈に合ったお金を稼ぎ、そのまま浪費することと近かった。多少、余剰が出れば成功で、かつかつになれば失敗と呼べた。けもの道を歩くという意気込みも、快適な砂浜に裸で横たわることに勝らなかった。実際、ぼくはけもの道を無断で抜け出してしまっている自分に気付いて当惑しながらも、もう戻る覚悟も勇気もなかった。楽であること、居心地のよいことを常に念頭に置いた。ぼくの若い気高い悩みを希美は知らない。そして、ぼく自身も底の抜けた袋に入れたまま歩きつづけていたようで、いつの間にか、後ろに置いてきてしまったらしい。青い野心を。尖ってもいなく、誰かを蹴落とすことも念頭にない野心を。
その名残の本だけが、無残に征服された中世の都市の城壁のように、堅牢とも呼べずに本棚を埋めていた。希美はそこに立ち、うっすらとほこりを積もらせた本の数々を引っ張り出していた。彼女のきれいな瞳の焦点を、そんな小さな文字に合わす必要もない。犠牲者は自分だけで充分だ。希美は、弾痕の無数の穴を帯びているのと反対側の城壁内でゆっくりと微笑んでいればいいのだ。軽やかにダンスを束の間踊り。
「ねえ、どれがいちばん好き?」彼女は振り返って訊いた。
「うん?」
「読んだなかで、どれがいちばん好きなのかなって。感銘をうけるというの?」
「どれかな」無知なる響き。無知なる質問。だが、ぼくは軽蔑することもできない。アクセサリーを誇る女性にも、同じ質問をぼくは投げかけることだってあり得るのだ。食い道楽にどの料理がいちばんおいしいのかとも訊けた。食事の回数も量もそのひとにとって無限ならば、ぼくの本もそれと等しかった。どれか、ひとつなど・・・・・・。
だが、答えがない訳でもない。ぼくは希美が望みそうな本を奥から一冊、抜き取った。彼女はおもむろに開き、最初のいくつかの文章を声に出して読んだ。本は絶対に手にすれば開かれ、文字を追われるのだ。宿命的に。ときには美しい声の響きとなって化け、他者の耳に達した。
「おもしろい?」
「と、思うよ」なにを基準におもしろいと訊いたのだろう。冒険活劇のような慌ただしい展開。アラビアのロレンスのような人生。勧善懲悪。「ぼくと、いっしょにいるときと同じぐらいに」
「ふふん」彼女は鼻だけで笑った。その際に鼻のあたまにしわが寄った。それから彼女は床にすわり、本を開いた。本を貸すという行為は押し付けだけの要素でできているようだった。ならば、自分との交際を求めるのもほぼ等しい行為とも言えた。自分といることを望み、自由を奪った。だが、ひとはなにかをして時間を埋めなければならない。そこに貴重も無駄もなかった。欲があり、淋しさがあった。人間のこころなど邪魔なもので大分できあがっているらしい。
ぼくは自分の本棚を他人のような気持ちで見る。人生の秘密をこれらはこっそりと打ち明けてはくれなかった。だからといって読まない訳にもいかなかった。希美を前にして、素通りできなかったように。自分との時間を押し付けるように。
希美は本を閉じる。途中にしおりを挟んで。ここまで読んだという確かな証拠。だが、それは簡単にずらすことができる確実性のないものでもあった。誰もしないが、誰もができる。
「もう、読まないの?」
「これから、盛り上がりそうな直前で止めた。借りてもいい?」
「どうぞ」ぼくは今後、開くことがないであろう本に囲まれて暮らしているのだ、とその時に思った。捨てることもせず、売り払うこともしない。かといって定期的に読むほどに夢中になっている訳でもない。内容も思い出せず、そこにあること自体が理不尽なような気がしていた。十一年前の女性。新たなページが加わることもないが、ぼくのこころから完全な意味で消え去ることもない。所有でもない。形がある訳でもない。ただ、遠いむかしに手放した子ども時代のおもちゃと同じ類いのものかもしれない。だが、ぼくはその玩具に甘い懐かしさなど感じていない。もう一度、取り戻したいとも思っていない。あの女性の変化を、ぼくは受け止められないであろう。すると、ぼくは再度、あの女性が欲しい訳でもなかった。あの当時の自分に戻ることを切に望んでいるだけなのだ。それも、どこかで違うとぼくのこころは訴えていた。希美は鏡で自分の髪形を見ていた。少しいじり、少し納得した。ぼくはこの時間も得たかったのだ。希美に自分の存在のすべてを押し付けたかったのだ。そして、彼女からも百パーセント、押し付けられたかったのだ。ぼくは本を捨てないということを考えているだけなのかもしれない。その正当化でさまざまなことを頭のなかで並べ立てていた。その一冊一冊がぼくを作ったのかもしれず、希美や、あの若い少女が、ここにいるぼくを作ったのかもしれない。もろさと堅牢さを兼ね備えて。
ぼくは無数の本を読んだ。それでいながら何も理解できていないのは、十一年前と同じだった。およそ千冊の本は視力だけを無慈悲に奪い、内容を正確に思い出せるのも、どれだけの量の本の中身なのか皆目見当がつかなかった。設定したぼくのゴール自体も不鮮明になり、道中の足もともおぼつかなかった。生きるということは身の丈に合ったお金を稼ぎ、そのまま浪費することと近かった。多少、余剰が出れば成功で、かつかつになれば失敗と呼べた。けもの道を歩くという意気込みも、快適な砂浜に裸で横たわることに勝らなかった。実際、ぼくはけもの道を無断で抜け出してしまっている自分に気付いて当惑しながらも、もう戻る覚悟も勇気もなかった。楽であること、居心地のよいことを常に念頭に置いた。ぼくの若い気高い悩みを希美は知らない。そして、ぼく自身も底の抜けた袋に入れたまま歩きつづけていたようで、いつの間にか、後ろに置いてきてしまったらしい。青い野心を。尖ってもいなく、誰かを蹴落とすことも念頭にない野心を。
その名残の本だけが、無残に征服された中世の都市の城壁のように、堅牢とも呼べずに本棚を埋めていた。希美はそこに立ち、うっすらとほこりを積もらせた本の数々を引っ張り出していた。彼女のきれいな瞳の焦点を、そんな小さな文字に合わす必要もない。犠牲者は自分だけで充分だ。希美は、弾痕の無数の穴を帯びているのと反対側の城壁内でゆっくりと微笑んでいればいいのだ。軽やかにダンスを束の間踊り。
「ねえ、どれがいちばん好き?」彼女は振り返って訊いた。
「うん?」
「読んだなかで、どれがいちばん好きなのかなって。感銘をうけるというの?」
「どれかな」無知なる響き。無知なる質問。だが、ぼくは軽蔑することもできない。アクセサリーを誇る女性にも、同じ質問をぼくは投げかけることだってあり得るのだ。食い道楽にどの料理がいちばんおいしいのかとも訊けた。食事の回数も量もそのひとにとって無限ならば、ぼくの本もそれと等しかった。どれか、ひとつなど・・・・・・。
だが、答えがない訳でもない。ぼくは希美が望みそうな本を奥から一冊、抜き取った。彼女はおもむろに開き、最初のいくつかの文章を声に出して読んだ。本は絶対に手にすれば開かれ、文字を追われるのだ。宿命的に。ときには美しい声の響きとなって化け、他者の耳に達した。
「おもしろい?」
「と、思うよ」なにを基準におもしろいと訊いたのだろう。冒険活劇のような慌ただしい展開。アラビアのロレンスのような人生。勧善懲悪。「ぼくと、いっしょにいるときと同じぐらいに」
「ふふん」彼女は鼻だけで笑った。その際に鼻のあたまにしわが寄った。それから彼女は床にすわり、本を開いた。本を貸すという行為は押し付けだけの要素でできているようだった。ならば、自分との交際を求めるのもほぼ等しい行為とも言えた。自分といることを望み、自由を奪った。だが、ひとはなにかをして時間を埋めなければならない。そこに貴重も無駄もなかった。欲があり、淋しさがあった。人間のこころなど邪魔なもので大分できあがっているらしい。
ぼくは自分の本棚を他人のような気持ちで見る。人生の秘密をこれらはこっそりと打ち明けてはくれなかった。だからといって読まない訳にもいかなかった。希美を前にして、素通りできなかったように。自分との時間を押し付けるように。
希美は本を閉じる。途中にしおりを挟んで。ここまで読んだという確かな証拠。だが、それは簡単にずらすことができる確実性のないものでもあった。誰もしないが、誰もができる。
「もう、読まないの?」
「これから、盛り上がりそうな直前で止めた。借りてもいい?」
「どうぞ」ぼくは今後、開くことがないであろう本に囲まれて暮らしているのだ、とその時に思った。捨てることもせず、売り払うこともしない。かといって定期的に読むほどに夢中になっている訳でもない。内容も思い出せず、そこにあること自体が理不尽なような気がしていた。十一年前の女性。新たなページが加わることもないが、ぼくのこころから完全な意味で消え去ることもない。所有でもない。形がある訳でもない。ただ、遠いむかしに手放した子ども時代のおもちゃと同じ類いのものかもしれない。だが、ぼくはその玩具に甘い懐かしさなど感じていない。もう一度、取り戻したいとも思っていない。あの女性の変化を、ぼくは受け止められないであろう。すると、ぼくは再度、あの女性が欲しい訳でもなかった。あの当時の自分に戻ることを切に望んでいるだけなのだ。それも、どこかで違うとぼくのこころは訴えていた。希美は鏡で自分の髪形を見ていた。少しいじり、少し納得した。ぼくはこの時間も得たかったのだ。希美に自分の存在のすべてを押し付けたかったのだ。そして、彼女からも百パーセント、押し付けられたかったのだ。ぼくは本を捨てないということを考えているだけなのかもしれない。その正当化でさまざまなことを頭のなかで並べ立てていた。その一冊一冊がぼくを作ったのかもしれず、希美や、あの若い少女が、ここにいるぼくを作ったのかもしれない。もろさと堅牢さを兼ね備えて。