田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

「代々木会館」44年前の「傷だらけの天使」

2019-03-29 17:23:23 | 雄二旅日記


 土曜の夜に、夢中になって見ていた「傷だらけの天使」の放送が終わったのは今からちょうど44年前の1975年3月29日だった。

 しばらくして、同じく「傷だらけの天使」を夢中で見ていた井のさんから「修(ショーケン)と亨(水谷豊)が住んでいたペントハウスの場所が分かったから行ってみないか」と誘われた。

 ペントハウスは代々木駅にほど近い「代々木会館」の屋上にあるという。行ってみると、会館の内部はまるでラビリンスのような不気味な雰囲気で、中学生にはいささか刺激が強過ぎた。ボロボロの階段を上がってやっと屋上に着くと、確かにペントハウスはそこにあった。

 中に入ってみると、最終回で、修が死んだ亨の体に巻きつけたヌードグラビアのようなものや、ゴミが散乱していたが、何だか最終回のタイトル「祭りのあとにさすらいの日々を」そのままの、空しく寂しい気分になって、早々に立ち去ったことを覚えている。

 風の噂では代々木会館はまだ取り壊されていないらしい。井のさん、元気か。ショーケンが死んじゃったよ。




 ショーケンには一度だけ会ったことがある。彼が『日本映画〔監督・俳優〕論』という本を出した時に、出版記念会見の模様を、取材、撮影し、記事にしたのだが、かつての憧れの人を目の前にして、仕事とはいえドキドキした覚えがある。(2010.10.18.)
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ショーケン逝く

2019-03-29 11:07:43 | 映画いろいろ

 ショーケンこと萩原健一が亡くなった。彼が俳優として活躍し始めた1970年代に学生時代を過ごし、彼に憧れた者の一人としては、その訃報に接してさまざまな感慨が入り乱れる。



 彼が出演した数々のテレビドラマは今も鮮明に覚えている。「太陽にほえろ!」のマカロニこと早見淳、「風の中のあいつ」の黒駒勝蔵、「勝海舟」の岡田以蔵、「傷だらけの天使」の木暮修、「前略おふくろ様」の片島三郎、「祭ばやしが聞こえる」の直次郎…。どれも好きなのだが、一つ選ぶとなるとやっぱり修ちゃんだ。

 映画の方は幾つかメモが残っていたので、彼に対する印象を書いたところだけを抜粋する。

『股旅』(73)(1982.6.5.)
 アメリカのニューシネマともイメージが重なるこの時代劇の登場人物たちは、俺たちの周りにもいそうな、世の中から取り残され、行き場を見失った者たちだ。だから、そんな状態から何とか抜け出そうとして右往左往する姿はとても身近なものに映る。金も欲しい、地位も欲しい、女も欲しいし、何よりカッコ良く生きたい、という欲求は今も昔も変わらない。市川崑はそのことを頭に置いてこの映画を作っている。だから俺たちが憧れるショーケンをキャスティングすることで、時代を超えた共感を見る者に与えられると考えたのだろう。

『影武者(80)(1982.4.3.)
 この黒澤映画を初めて見た時は、武田勝頼を演じたショーケンが特にひどいと感じたのだが、今回見直してみて全く逆の感慨が浮かんだ。それは、黒澤は勝頼の単純さや無鉄砲さをショーケンの中に見たのではないかということ。あの役を演技力抜群の俳優にやらせたら、勝頼の悲惨さは出せなかったかもしれないからだ。

『誘拐報道』(82)(1982.11.8.テアトルカマタ)
 同じく誘拐を扱った黒澤明の『天国と地獄』(63)で山崎努が演じた冷酷冷静な犯人よりも、この映画でショーケンが演じた犯人像の方がより人間的であり、現実的でもある。誘拐後の慌てぶりと後悔の念をショーケンが見事に体現している。だからこの男の持つ悲しさや弱さの方に目が行き、彼に同情すらしてしまうのである。

 奇しくも、柳ジョージではなく、ショーケンが歌う「祭ばやしが聞こえる」の音源を見付けて、最近よく聴いていた。特に歌がうまいという訳ではないのだが、独特の味がある。『Nadja -愛の世界-』というアルバムに入っていた「グレイ」が好きだった。

 私生活はめちゃくちゃな人だったが、昭和の時代だったからこそ何度も許されたところもあると思う。その意味では、役者としては幸せだったということもできるのではないか。でも「祭ばやしが聞こえる」の歌詞じゃないけど「この寂しさは何だろう」…。

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ワイラーとゴールドウィン1『この3人』

2019-03-29 06:24:55 | 映画いろいろ
『この3人』(36)(1991.7.)



 映画と検閲の問題を考えると、何から何まで際限なく見せてもいいのか、という問題とは別に、作られた時代の政治や社会情勢が浮かび上がってくる。この映画も、検閲の影響もあって、脚本のリリアン・ヘルマンが当初意図した、女生徒の嘘によって同性愛の噂を立てられ窮地に追い込まれる寄宿学校を営む2人の女性(ミリアム・ホプキンス、マール・オベロン)とは違い、2人が一人の男性(ジョエル・マックリー)を共有する不貞な関係に変化したのだが、そうした改変の中でも諦めず、俳優たちの演技を引き出し、一級の作品に仕上げたウィリアム・ワイラーの監督としての手腕はさすがと言うべきか。

 そして、30年という年月を経て、『噂の二人』(61)として再映画化したのだから、そこにはワイラーのこの題材に対する執着の強さも感じられるのだが、今となってはそれほどスキャンダラスな題材とは映らない。けれども、それは差別に対する意識の変化という意味では喜ぶべきことなのだろう。この両作の、今にも通じるテーマは子供の嘘がもたらす罪である。

ジョエル・マックリー

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