午前5時の起床時は真っ暗、随分と日が短くなりかけています、
今朝は「月1度の坐禅会」。
午前6自10分前、すでに女性一人が着座・・、私が座に就く前に
小鐘一つ、一度終わった様子にびっくり。
老師は坐を立たれ釣鐘堂へ、「6時の梵鐘」は老師の当番らしい、
力強い般若心経の読経、ゴ~ン、6時である。
席に戻られた老師は、参禅者の後ろに回られ「検単」を受ける。
同じくして老師の坐中のお話が始まる、
*今日のお話は、比較長かったので要旨は、
- 一人一人が世に出た意味
- 生きていく上の苦しみ悩みを除く「解脱」、お釈迦様の教え。
- 最後は、坐禅は悟りや対価を求めるものではない、自己の研鑽。
「淀みに浮かぶ、泡沫はかつ消え、かつ結ぶ・・・」
川の流れの中で、泡はいくら出てきても、ぼつぼつと消え
自然に流れゆく。これは「我々人生の流れと同じ」ではないか。
どのように生き方をしてきたのか、年齢、環境等
それぞれに価値観はいろいろ、
多くの苦しみ・悩み・病もそれぞれでありますが、
仏教ではこうしたことから逃れたい事を「解脱」といいます。
このことを成し遂げたい人が求めたのが
「おしゃか様の教え」でした。
この教えに学ぶことは「正しいとされる根拠」は、
道元禅師様のほか8宗の開祖様等諸先輩が、
おしゃかさまの膝元へ近寄ろうとして事実です。
この思いを表す方法が「おけさ」です。
また、苦しみから、解脱したい、逃れたい人達、
我が強く、悩みの多い人ほど佛教がわかる人。
この世に生きる理由は
- 命のありようは「願生」すなわち生きる事を自分で願い出てきたもの。
- 「見、釈迦牟尼仏をよろこばざらんや」すなわちお釈迦様と出会い 喜びのため来たのです、仏の教えが「生きる意味」です。
仏様に会える道は、「仏とは物持たぬ心なり、我が仏と思わぬなり」
「愚とは、従順の姿なり」とも、この姿で、仏様を見る、と教えています。
仏様の姿とは、実像があるわけではない、
人それぞれの心の中に有るもの。
そこに、新しい世界が始まるのです、
そうした中に解脱も現れ、良い世の中が構築されていくのです。
「坐禅する姿」は、正身端坐、何も求めない姿、
すなわち我を捨てる時間、あとは仏様にすがる姿かもしれません。
座りながら考える、そんな時、救われている私の姿なのかもしれません。
「煩悩即菩提」 と結ばれた。
小鐘1つ迄、お話の連続、坐禅も50分に及んだ。