先日、夜半からの雨は「まとまった雨量になるでしょう」の予報どおり静かだがいち日続いた。貯水量の少ないダムには恵みの雨となったろう。これが雪なら銀世界が見られたかもしれない。
玄関前に置いている紫竹の葉に静かな雨音を残して落ちていく雨粒を見ていたらふと思いだした。なにかで「げんこつの雨」を読んだとき、この雨は何だろうと思い調べた。その「雨」は絶え間なく降りそそぐたとえ、とあった。身に経験のないことだが怖いと感じたのは小学校の図書室だった。
「雨が降ろうが槍が降ろうが」、よく聞きまた使ったかも知れない「どんなことがあっても、どんな困難に出会ってもやり遂げる」というこの表現、今の世では使われなくなったように感じている。
「雨はれて傘を忘る」、受難のときが過ぎるとその時受けた恩を忘れてしまうという例えに使われる。人として欠かしてはいけない戒めだろう。大事にしたい。
子どものころ登校前に雨がやむ。曇り空を見ながら重たい番傘を持っていくか悩むと「朝方の雨はすぐ晴れる。傘はいらない」と祖父はよく教えてくれた。ラジオの天気予報と歳月を経た経験則からの予報は良くあたった。その祖父は大雨の朝逝った。あちらでも予報を楽しんでいるだろうか。
(写真:静かな雨足に濡れる紫竹))