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続けて、魚に絡めて「清い」とはどういうことかを述べてある。綺麗な水の流れの中に魚はいるが魚影は濃くない。歴史の中では純粋な青年たちの組織には、笑顔とかふくよかさとか、豊かさがない。綺麗を突き詰めていくと生きものの気配が無くなるのではないか、とある。清からずの状態の水では小魚、藻、水草など生態系が出来る。あくまでも釣りを絡めた話だが、濁りすぎはいけないともある。
現役のころ、製造部門から事務系のある部署へ異動になった。警察官の経歴をもつ10数歳年上の人から「この職場では清濁併せ呑む心構えが必要」と経験を交えて教えられた。退職までの20年余、何度か善いこと悪いこと、良い人悪い人、綺麗かそうでないか、そうした苦しい場面をなんどか経験した。苦労したのは濁を避けずにそれにどう対応するかだった。
清すぎては生きものの世界が無くなる、と先の人は例示している。清すぎ無ければいけない世界、濁りを許してはいけない世界がある。それは政治だ。特に最近の公文書隠蔽や改ざん、答弁拒否、知らない、記憶にない、総合的に判断などは絶対に子どもには見せてはならない、真似して欲しくない場面だ。国地方を問わず政治家は国民住民のための政策を遂行してと願う。