空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

多様性と相互理解と運動家の運動と(課題を適切に切り分けたい)

2018-08-25 11:07:29 | ノート


 わざわざ意識的に許しあわないでも、「おめーの趣味はおめーの趣味だろ。勝手に楽しんでろ」が普通の態度になればいいのである。特段の損害があれば対応するが、そうでなければまー勝手にしろ、と。で、そういう態度はわりと既に行き渡っているものと推測できる。



 これは多数愛者とでもいう類の人らしく。
 例えば私がこの人の恋愛対象になって、そして折り合いが悪くてフることになったと想定してみよう。まあ、他の彼氏との折り合いがつかなかったとか。その場合、私は彼女をフるだけであって、『私のことを嫌いになれ』と要請・要求はしないだろう。なぜなら、私を好きでいるかどうかは彼女の側の自由だからだ。また、それに応えるかどうかはこちらの自由である。自由な恋愛活動の過程・結果が現れるというだけのことである。



 例に挙げるものについてはさておき、これは一面をついている。

 ただし多少精緻化するべき余地はある。「マイノリティ側がマジョリティを殴りにかかってくる」は不正確で、実際は「(自分は)マイノリティ側(であると主張する運動家)がマジョリティを(無知な矯正されるべき者として)殴りにかかってくる」くらいだろう。

 さらに論点はあり、
1) ふつーの人たち(マジョリティの相当部分)は、いわば消極的なリベラルで、恐らく、実は常にそれなりの寛容をしめしている。
 しかし、ただし
2) それほどまでに日常的なものとなってしまったリベラル雰囲気のなか、さらなる改良にはやや感度が鈍い。
 そこで
3) そうした保守的な大衆の啓蒙は当然に必要である。
 ところが
4) 実は、喫緊に対処せねばならぬのは、積極果敢な反動主義者である。
5) マイノリティ側運動家(の一部)は、しかし、「保守」と「積極的反動主義者」との区別と別個の対応を要することに理解がおよばず、「自分以外」をまとめて攻撃対象と認知しがちである。
 とまあ、こんな感じかと思われ、それだから「マイノリティ側がマジョリティに対して、カマッテくれとちょっかいだしてくる」という感想が出てくる、といったあたりか。
 これも「(自分は)マイノリティ側(であると主張する運動家)がマジョリティに対して、カマッテくれと(いうか、自分たちに全面的同意をして自分たちに資源を譲らない限りお前らは差別主義者だという悪罵を投げかけるという)ちょっかいだしてくる」とでも補うべきだろう。

 たとえば、関連:「トランスジェンダーの役者さんの主張とその用語法、運動の方向性について(2018-08-03)」

 …そしてそれは、当のマイノリティ(の相当部分)の生や生活を圧迫する。
 ときおり『カムアウトは多少ハードルがあったけど、うちはうちの家族も向こうの家族も許容・祝福してくれたよ!』というゲイレズカップルなんてのがあるが、それに対して運動家が『そんなことはありえない! お前はお前が味わった差別を言え! お前はその差別と戦わねばならない! 戦わないなら、お前は差別主義者だ! この異性愛至上主義者め!』みたいな悪罵を投げつけることがあるようで。

 また、乙武氏のような事実上の強者が身体障害の弱者の代表者・典型なるものとして振舞ったことで、そこらの並みの実際に配慮を要する身体障害者たちが「肩身が狭くなるだろが」と怒ったとかかいうことを思い起こしてもいい。

 …社会運動家は、その課題を適切に把握すべきなのだ。改善すべき問題点を提起すること、それが普遍的な正義に適うことの説明と(以上は哲学的な話かねえ)、社会的な資源配分についての要求の話(これは実際の自治体レベルでの政策・政治の話)と不適切に反対する反動勢力との闘争(場合によっては場外乱闘)と、それぞれ戦い方もタイムスパンも別なのだ。

 まあたとえば、「ホモwww気持ち悪ぃwwwオレはヤダねwww」という感想は、まあわりとあろう。男性の9割くらいは異性愛者だし。これは「オレはイヤだ」という反応で、目の前にいる話者との共感をも期待しているかもしれない。何しろ大多数が異性愛者だし。私なら、「まー勝手にしてればいいんじゃね?」と回答するだろう。この程度の日常会話は、自己の自由の主張と他者の自由に対する不干渉の表明と評価可能だろう。

 コレに対して、『積極的に同性愛を認容しないのは差別だ!』と介入してくるアホがいるだろ?というのが「ちょっかいだしてくる」の内容だろう。コレに対して、「オレがゲイを嫌う自由はないのか?」「オレがゲイを既に認めているという自由な選択をしたことを、なんでお前はしてないなどと断定して殴りかかってきてんだ?」とかいう思いがあるのである、こっちには。

 運動家たちが真に戦うべきは、最近なら杉田議員に例示されるような積極的な圧迫者であり、「我々」ではないのだ―政治運動の合理性としても。なにしろ、実際的に多数を占める異性愛者のリベラル分子が(消極的であれ)賛同を示してくれないと、彼らの主張は民主的な正統性を得られないので。

 にも拘らず、ステキなポリコレ棒を手に入れたというので、あたるを幸いそのへんに殴りかかってさしあたりの政治的満足を得ようという水準の「運動家」が目に付くというあたり、なんとも救えないなあと両極端に対して同様に思うのである。






 私はコッチの立場だなあ。「軍隊がないのは…」はいい言葉だ。

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