空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

リベラルとして賞賛すべき態度:高島章氏の例を参照しつつ

2018-05-16 22:08:29 | ノート


 思想の違いですかな。
 個々人の理性の自律の可能性を強調し、さらには絶対視する方向性の思想のひとであれば、「法の一線を越えるか否かはその個人の責が大きい」と判断するだろう。

 他方、そうした個人の自律を認めず、人間の理性と言うのは諸種の外在的情報に拠って他律的に、操作されるものであると信じる思想のひとであれば、個々の人間の行動の「責任を表現物に押し付ける」ことになる。

 前者の思想の極地=個々の人間理性は外部世界の影響を受けることがない独存たるものであるという思想は現実の経験により(当然)否定される。
 我々は未成年の時期を人格形成期として、特に他者の影響を受ける時期として(社会的に)設定している。だから、自立した大人は、その自律性を相互に信頼し、”悪しき”情報にただ操作されるということはないという風に相互に承認し合い、例えば「成人向け」コンテンツなどを消費することを相互に承認する。

 後者の思想の極地=人間に自律性はありえず、他の情報に拠って完全に制御されるとするのも現実の経験により(当然)否定される。
 その「左右する」ところの情報はいったいどこから・だれから作られたのか。この立場の場合、情報をつくるという積極性だってあるはずがない。

 なので、当然、無論、この両者の中間に現実の我々の状態がある。「表現物がリアルの人間の行動に影響を与える。というのは事実なのだろう」ことを認めつつ、「責任を表現物に押し付ける層」が陥る問題点は明らかだ。彼らは―

1) 自らも、他者の創作物によって多大な・決定的な影響を受ける愚劣な知性の持ち主であることを認め、恐れて、不適切なものを規制しようとする。この際、規制者には、自分たち愚劣な者より大きな権限を与えざるを得ないことも認めることになる。

 彼らは、誰か権威者に従う社会契約を自ら結ぶことになるだろう。これは相互に平等で対等であることを一応の原則とする社会契約と微妙に馴染みがよくない。

2) 一般大衆は他者の創作物によって多大な・決定的な影響を受ける愚劣な知性(まあ倫理・道徳性でもあろうか)の持ち主であると認定し、それを正しく認知する自分(たち)は知的に(あるいは物事によっては倫理的に・道徳的に)優越した存在であり、愚劣なもの共を知的に(または倫理的に・道徳的に)指導する権利、資格、ないし義務があると確信する場合。

 まあどっちみち相互に対等な市民であろうとする思想とは相性がよくない。
 なのでこうした事例―「青地真美(イザンベールまみ etc)」―だと、上掲2) の態度が看取され、それゆええらいこと反発もうける。「「パブリック・エネミー」騒動メモ」の一件は、こうした人々の隠れた欲望―他者の思想を自分の自由に規制し、違反者を恣意的に非倫理的主体として排除しようとする―をあらわにする、そんな事例の一件に過ぎない。

 こうしたなか、リベラルとして賞賛すべき態度とはこのようなものである、と思う:



 ンなわけで、私はこの「30年前のオールド左翼」たろうとするのである。そこまでの年寄りではないけど。ここ10年やそこらで「リベラル(笑)」になったよーな連中と一緒にして欲しくないと思うくらいには、「間違いのない左翼」と呼ばれたプライドはある。

 なお


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