ついでに言うと、政治信条や発言内容が気に入らないのはいいとして、それを外圧を使ってでも打ち倒そうと主張する人はその時点で民主政を裏切っているのであり、自らがすでに裏切った民主政に復讐されるのは当然だとも思うわけである。こうしてみるとしかしケルゼンは偉いよな。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) July 30, 2013
難しいことを言われているので日常的な言葉 ないし 記憶の奥底にあるようなお話 で言えば:
幼少時,小学生低学年時に,私たちは,何か”悪いと思われる”ことをした同級生に「せーんせーにゆーたーろー」と囃し言葉を言ったことはなかっただろうか。
…いや,先生が何らかの権威者であった時代の残り香だが。
いやまあ。
ブランコの順番飛び越しなんかをした”悪がき”に,そうした言葉で,その規範を無視する態度への抑止力を期待しはしなかっただろうか。
しかし,そうした言葉は,だんだん学年があがるにつれ,言いにくくはならなかっただろうか。
つまり,私たちは”大人”になるにつれ,だんだん自律の範囲が広がって来はしなかっただろうか。
我々は幼少時から民主主義の訓練を経ているのである。
楽しい楽しい滑り台も,「じゅんばん」を守らないと楽しくない(楽しくできる時間が少なくなる)ことを,自ら学ぶのだ。
『だめだよ! じゅーんーばーんっ!』
順番を飛び越そうとした者には,そうした言葉が投げかけられる。我をはって,自分だけが自由に順番飛び越しをする権利があると主張したい気はするが,同じ主張は誰もがしたいのであって,同じ資格でここにいる自分は自分だけに特権を主張できるわけはないことを…
…だんだんと,直感的にも,学ぶのである。民主主義的に。同じ資格を持つ仲間たち(「おともだち」)の中で。
しかし,本気でどうしようもない暴力的な主張がなされる場合もある。個体差ってあるものな。成長が速くて,卓越した実力で以て自己の権力を主張する人物も出てくる可能性がある。
『いーじゃんべつにー』
ここで,誰とはなしに囃し言葉が出てくることがあろう。『だーめなんだだめなんだー。せーんせーにゆーたーろー』。圧倒的な実力を備えた者=大人,先生の(潜在的な)実力行使(の権限)を盾に,ある一個人の(不正な)要求を阻害することがある。
でも,それで『じゅんばん』をまもっても,私たちはなにか気分が悪くはなかっただろうか?
そんな気持ちを抱くなら,それは,自分たちの民主主義の限界に気づかされたからなのだ。
子供たちの楽園の中に,その楽園を守るために,外部の権力を(やむをえず)導入せざるを得なかったことは,いささか気分のよからざる事なのだ。自分たちの楽園の自律性の否定なのだ,それは。
さあ,小学校3,4年生になったとしよう。5,6年生になったとしよう。『せーんせーにゆーたーろー』,このセリフをてらいもなにもなくいえるだろうか。『僕たちの世界』に,大人たちの介入を(無制限に)認めるべきだろうか。
―認めるべき,と言う者は,じゃあその「大人の世界」についてはどう考えるのだ? さらなる「大大人の世界」があるのだろうか?
常に根拠は外部に遡及して,遂に「我々」のなかにそれは存在しないのだろうか?
それならそこでは善いこと/悪いことの判断を,最終的には自分(たち)では下さず,他者に任せるのである。
それは「主体性の譲渡」と言うべき事態なのではないだろうか?
それなら,主体的な諸個人を前提とする民主主義は,そこでは機能する余地はないのではないのか?
―つまりこの事態が「外圧を使ってでも打ち倒そうと主張する人はその時点で民主政を裏切っている」ということだ。
…もちろん我々は孤立して存在しているのではないので,諸々の存在にたいしてコンフリクト起こさないかどうかよくよく考えなければならないし,彼らの意見に傾聴する必要もあるわけだが。
しかしそれらもしかるべき位置があろうというものだ。
今回の麻生氏の件の場合,ことがナチスへの評価云々に関わりかねないので,まーヴィーゼンタールが反応するのも致し方ないかもしらん。それに対して,麻生氏は”いや私の喋り方が悪かった。勿論ナチスのやりようは悪いに決まっている”との旨,声明したわけだ。ひとまずの落としどころでは,まあ,ある(先方が納得するかどうかは別だが)。
でまあ,麻生氏が配慮か思慮の足りない発言をしたのはまあ間違いないので,彼を追及するのはまずは我々(ないし,我々選出した代議士)であるべきではなかろうか。きつく叱り置き,今後同様のしくじりをなさぬよう,我々が熟慮熟議を凝らすべきではあるまいか。なぜなら彼は我々の代表だからだ。そして我々の代表が彼の責任を追及しようとしている(たしか共産党がヒートアップしてたはず)。ある問題領域には,それに相応した資源をもって応待すべきなのである。
我々の民主制は,なおそれなりの力を維持している(と,私は信じる)。彼ら代議士たちは,なおそれなりの信任を得ている。その我々の資源をもって,まず我々の問題に我々自身で取り組むべきではあるまいか。
―そう信じ,この過程に参与する者であれば,この「我々の民主主義」の中にある。しかしこの過程に参与しようとせず,外部の権威を持ちだす者は「自らがすでに裏切った民主政に復讐される」ことになろう。例えば局外のただのピエロのような存在として扱われることになろう。
ということで,まー例えば私みたいにそれなりに自分の局外性とゆーか道化師的,マージナルマン的性質に自覚的であれば(学者コースですしねー),『おまえはピエロだ!』と言われても「そうですが何か」で済むのだが,真剣に自律的プレイヤーだと確信しつつその行動で以て道化師を演じる者は,さてどうなんだろうなーとか思わないこともない。深夜だから嫌味くさい属性が丸出しになってるけどまあいいやー。
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