HuffPost 曽野綾子さん「移民を受け入れ、人種で分けて居住させるべき」産経新聞で主張 投稿日: 2015年02月11日 11時53分 JST 更新: 2015年02月11日 11時53分 JST
「2月11日付の産経新聞コラムで、作家の曽野綾子さんが、日本の労働人口が減少している問題について触れ、移民を受け入れた上で、人種で分けて居住させるべきだ、と主張した」
BLOGOS 曽野綾子のコラムが暗示する問題 2015年02月12日 01:02
「コラムでは、高度な日本語能力も専門知識も要らない介護のために労働移民を受け入れるべきだが、文化ギャップがあるので法的に居住地は別にすべきと主張している」
「ツッコミ所は多い。定住を前提とした移民では無く、出稼ぎ外国人労働者の受け入れの話な気がするし、介護職に高度な日本語能力や専門知識が要らないわけでは無いであろう」
昔、まだ「看護婦」という言い方だった時代から、フィリピンとかから候補生を呼んで訓練して…ということをやっていたわけで。それを思うだけで、訓練の大変さ(基礎訓練を向こうでしてきてもらうとしても、こっちで1~2年は必要)が思われる。
だから、この点でいえば、時間と空間の可能性を考慮していない・考慮できない人の意見ということになる。
「問題は、曽野綾子氏が教育再生実行会議委員であることだ。安倍内閣は彼女を重用しているのだが、考え方が近いからなのかは確認すべき問題だ」
うん、現行内閣の批判であれば、こういうまっとうな線から攻めるべきだとボクも思う。
ところで問題のコラムは2月11日付けということであるが、以下の神奈川新聞の記事は12日付けである。対抗する記事として書いたのであったとしたら、用意と能力を賞賛すべきだと思う:
神奈川新聞 日本語不自由な外国人児童が増加 早急な態勢整備が急務 2015.02.12 11:00:00
「横浜市の中心部で外国人の子どもが増え続けている。親たちが働く飲食店などが集まる中区や南区の小中学校では外国にルーツを持つ子どもが半数を占めるケースも。多くは日本語指導を必要としているものの、特別なカリキュラムがあるわけではなく、放課後の補習などで対応している。それも行政や地域の協力に支えられているのが実情で、現場からは日本語を教える仕組みを早急に整えるよう求める声が上がる」
「現在は限られた地域に集住しているが、より安価な家賃を求めるなどして住む地域が広がるドーナツ化現象も予想される。出川校長は「ノウハウを持たない学校に外国人の子どもが通う可能性がある。この先、外国人が減る要素はなく、みな永住志向でもある。学校に通う前に基礎を身に付ける初期指導、プレのようなものが必要ではないか」と指摘している」
そうすると、
・永住志向の人々のために、家族丸ごとの初期指導・「プレ」が制度的に求められる
・従って、そうした人々は一定程度の集住をせざるをえない(『どこに住むのも自由だわ!』と主張しようとした場合、極論、一家族ごとに各行政機関がお手当てをする必要がでてくる)
・先に来日していて働いているひとは、まあ時々、任地からこの初期指導施設に「帰省」することになるだろう
・あれ? これ、「公的な隔離政策」と何が違うの? という外貌を備えることになる
・こうした非自発的な、その意味では「自然」なコミュニティ成立は、しかし「その場所に公的な援助施設が設立されたから」という行政側の関与で出来上がるものである
上掲tweetsの如く、『いやあ、初期指導施設を設立したら、その周辺に移民コミュニティができちゃいましたよ。たまたまですよ、たまたま。意図的に集中させようとしたわけじゃないですよ』という不作為が、さて好ましいか望ましいか許容できるか。
「まあ、いいんじゃない?」といった次の瞬間、その状態は伝曽野綾子提案とあまり変わらない外貌を備える。つまり、行政側・権力側がどこに初期指導設備をセットアップするか、が、移民コミュニティ存立の場所を事実上規定するので。
あたりまえだろう、そうした施設を設置するには、纏まった土地が安く手に入る、まあそこそこアクセスの確保できる場所をとるだろう。そういうところは安価なアパートを作るに適するだろう。一時居留の人も永住志向のひとも、まずは安価なアパートを欲しがるだろう。そこに住み着くだろう。顧客が纏まって存在するなら、そこにそういう人々を狙ったスーパーマーケットとかできるだろう。
この場合、行政権力側は「そこに移民コミュニティができてもかまわない」「できるんじゃないかな」という暗黙の理解をもって施設を設置するだろう。これは所謂「事実上の強制」ではないか。では、この「事実上の強制」は正義に適うか。
…どこまでなら許容範囲か。
さて移民問題から離れて私の事情を想起すれば、私が就職した・できたのは、まあこの学校が実家から近いからだな。もはやあのときの私に、遠方に面接に行く金はなかった。公募のための郵便代金さえ底をつきかけた。自転車操業状態は就職後3ヶ月ほど続いた(クレジットカードを駆使し、給料日と振替日とを厳格に計算した)。状況は私にそのように強制するが如きであった。
…いやまあ現実には十二分な給料が下りてくるし研究者番号もついてきているからまず文句はないけど。給料がたりないっていうなら、科研費でもなんでもあてて、それで本を買うなり出張旅費にするなりすればいいだけだし。
大学が○○大だったのも、東京に行く金がなかったからでもある。いいよな北大とか、余所のところを受けることができる連中は、とかちらっと思ったし。これも「事実上の強制」とでもいえよう。
ということで、行政側としては、予算の関係もあって選択の余地がろくろくないところ、そういう仕儀に至るわけで、では何ができようか。
そこで、強力な行政側の指導によって混住を促進する…としたら? それをひとは許容するであろうか? という問題を出されているわけだ。
…あとまあ、行政側にもう強力な指導をするだけのリソース、たとえば端的にってあんまりお金がないとか、問題は山積みなんではあるまいか。
「2月11日付の産経新聞コラムで、作家の曽野綾子さんが、日本の労働人口が減少している問題について触れ、移民を受け入れた上で、人種で分けて居住させるべきだ、と主張した」
BLOGOS 曽野綾子のコラムが暗示する問題 2015年02月12日 01:02
「コラムでは、高度な日本語能力も専門知識も要らない介護のために労働移民を受け入れるべきだが、文化ギャップがあるので法的に居住地は別にすべきと主張している」
「ツッコミ所は多い。定住を前提とした移民では無く、出稼ぎ外国人労働者の受け入れの話な気がするし、介護職に高度な日本語能力や専門知識が要らないわけでは無いであろう」
昔、まだ「看護婦」という言い方だった時代から、フィリピンとかから候補生を呼んで訓練して…ということをやっていたわけで。それを思うだけで、訓練の大変さ(基礎訓練を向こうでしてきてもらうとしても、こっちで1~2年は必要)が思われる。
だから、この点でいえば、時間と空間の可能性を考慮していない・考慮できない人の意見ということになる。
「問題は、曽野綾子氏が教育再生実行会議委員であることだ。安倍内閣は彼女を重用しているのだが、考え方が近いからなのかは確認すべき問題だ」
うん、現行内閣の批判であれば、こういうまっとうな線から攻めるべきだとボクも思う。
ところで問題のコラムは2月11日付けということであるが、以下の神奈川新聞の記事は12日付けである。対抗する記事として書いたのであったとしたら、用意と能力を賞賛すべきだと思う:
神奈川新聞 日本語不自由な外国人児童が増加 早急な態勢整備が急務 2015.02.12 11:00:00
「横浜市の中心部で外国人の子どもが増え続けている。親たちが働く飲食店などが集まる中区や南区の小中学校では外国にルーツを持つ子どもが半数を占めるケースも。多くは日本語指導を必要としているものの、特別なカリキュラムがあるわけではなく、放課後の補習などで対応している。それも行政や地域の協力に支えられているのが実情で、現場からは日本語を教える仕組みを早急に整えるよう求める声が上がる」
「現在は限られた地域に集住しているが、より安価な家賃を求めるなどして住む地域が広がるドーナツ化現象も予想される。出川校長は「ノウハウを持たない学校に外国人の子どもが通う可能性がある。この先、外国人が減る要素はなく、みな永住志向でもある。学校に通う前に基礎を身に付ける初期指導、プレのようなものが必要ではないか」と指摘している」
そうすると、
・永住志向の人々のために、家族丸ごとの初期指導・「プレ」が制度的に求められる
・従って、そうした人々は一定程度の集住をせざるをえない(『どこに住むのも自由だわ!』と主張しようとした場合、極論、一家族ごとに各行政機関がお手当てをする必要がでてくる)
・先に来日していて働いているひとは、まあ時々、任地からこの初期指導施設に「帰省」することになるだろう
・あれ? これ、「公的な隔離政策」と何が違うの? という外貌を備えることになる
ある地域に自然と移民のコミュニティーが形成されるのと、居住区を強制されるのでは大きな違いがあると思います。@takehiroohya まあパリでもロンドンでも見た人にはわかる通り移民は緩やかであれクラスターを作って集住するのであり、
— アムロ波平 (@namiheiAMURO) 2015, 2月 12
・こうした非自発的な、その意味では「自然」なコミュニティ成立は、しかし「その場所に公的な援助施設が設立されたから」という行政側の関与で出来上がるものである
もうちょっと丁寧に。手段が正当なら結果は問わないというのは一つの立場で、この場合は結果としての分離が生じるのは同じでもそれが強制か自己決定の結果かで大きく評価が異なることになります。ただこの場合、公正競争の結果である独占は禁止できないことになる。
@namiheiAMURO
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2015, 2月 12
現実にはそのような独占も市場にとって有害であり、また競争が間違いなく公正であったという証明も難しいので、結果としての独占それ自体を問題として禁止する方向が選択されてきた。つまり我々は手段と帰結の双方を評価し、問題を回避するために介入しています。
@namiheiAMURO
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2015, 2月 12
重要なのは介入の前提となるdefaultの評価で、放置しても集中しないならば政府の役割は「意図的な集中策をとらない」という不作為に限定される。しかし逆ならば問題はまったく変わるよね、というのが元tweetのもっとも重要な内容でした。
@namiheiAMURO
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2015, 2月 12
上掲tweetsの如く、『いやあ、初期指導施設を設立したら、その周辺に移民コミュニティができちゃいましたよ。たまたまですよ、たまたま。意図的に集中させようとしたわけじゃないですよ』という不作為が、さて好ましいか望ましいか許容できるか。
「まあ、いいんじゃない?」といった次の瞬間、その状態は伝曽野綾子提案とあまり変わらない外貌を備える。つまり、行政側・権力側がどこに初期指導設備をセットアップするか、が、移民コミュニティ存立の場所を事実上規定するので。
あたりまえだろう、そうした施設を設置するには、纏まった土地が安く手に入る、まあそこそこアクセスの確保できる場所をとるだろう。そういうところは安価なアパートを作るに適するだろう。一時居留の人も永住志向のひとも、まずは安価なアパートを欲しがるだろう。そこに住み着くだろう。顧客が纏まって存在するなら、そこにそういう人々を狙ったスーパーマーケットとかできるだろう。
この場合、行政権力側は「そこに移民コミュニティができてもかまわない」「できるんじゃないかな」という暗黙の理解をもって施設を設置するだろう。これは所謂「事実上の強制」ではないか。では、この「事実上の強制」は正義に適うか。
…どこまでなら許容範囲か。
さて移民問題から離れて私の事情を想起すれば、私が就職した・できたのは、まあこの学校が実家から近いからだな。もはやあのときの私に、遠方に面接に行く金はなかった。公募のための郵便代金さえ底をつきかけた。自転車操業状態は就職後3ヶ月ほど続いた(クレジットカードを駆使し、給料日と振替日とを厳格に計算した)。状況は私にそのように強制するが如きであった。
…いやまあ現実には十二分な給料が下りてくるし研究者番号もついてきているからまず文句はないけど。給料がたりないっていうなら、科研費でもなんでもあてて、それで本を買うなり出張旅費にするなりすればいいだけだし。
大学が○○大だったのも、東京に行く金がなかったからでもある。いいよな北大とか、余所のところを受けることができる連中は、とかちらっと思ったし。これも「事実上の強制」とでもいえよう。
ということで、行政側としては、予算の関係もあって選択の余地がろくろくないところ、そういう仕儀に至るわけで、では何ができようか。
なので政府が何もしないとおそらくは曽野氏の書く状態が緩やかに実現するのであり、それを良くないと思うならば(私もそうだが)かなり強力で強制力さえ伴うような混住政策を選ぶ必要がある。曽野氏を批判するのはいいけど、そういう強力な政策実現を受け入れる気があるのかねえ、とは気になるところ。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2015, 2月 12
そこで、強力な行政側の指導によって混住を促進する…としたら? それをひとは許容するであろうか? という問題を出されているわけだ。
…あとまあ、行政側にもう強力な指導をするだけのリソース、たとえば端的にってあんまりお金がないとか、問題は山積みなんではあるまいか。
おおや先生は、そういう例題として提示されたものかと思われ。
伝曽野案のようにすると、あからさまに民主主義的正義の観念に反する。
といって、所謂「人道的に」処理しようとすると、予算やらなにやらのリソースが足りないという問題に直面する。結果として、予算確保=増税と、混住なり手厚い補助なりを実現するため、旧来の住民に強力な「指導」をせざるをえない。
なので中庸を選ぼうとすると、そうした不作為のおかげで、移民コミュニティの島があちこちに発生する。
労働力不足を埋める手の一つは「女性の活用」ではあるが、それを進めると、”自然な排外主義”を主張したくなるような向きには面白からざる結果になる。
つまり、「女が自立」する傾向が強くなる、女が主婦の位置に収まらなくなる=しゅうと・しゅうとめの面倒を見てくれなくなる。
玉井克哉(Katsuya TAMAI)「先日久しぶりに会った友人が「シンガポールやスイスのやってるような露骨な策は、日本みたいな大国には無理。目立つから」と言ってたけど、その通りのようですね。善悪を論ずる以前に、不可能。」(ttps://twitter.com/tamai1961/status/566493511654969344)23:05 - 2015年2月13日
なのである。
たしか台湾でも類似の策をやっていたと記憶するけど。
”できるだけ離れて暮らしましょうね”
”住むところは別にしましょうね”
という、分かりやすい表現による柔らかな排外主義発言を結果する、のが典型的なパターンになるか。
まあお互いの”紳士協定”で済みそうに見えるよね、って感じかしら?
『ここまで分かりやすい言葉で説明しているのに、それさえ理解しない・できないのでは、もはや我々のコミュニティの一員として認めるわけにはいかない』。
柔らかな言葉で発せられた言葉であるだけに、この理屈は一般の共感を大いに呼ぶことであろう。
それはさておき、そういう状況でも、社会・経済的な状況は発生するわけである。つまり、彼ら(外国人労働者)のお給料が低く抑えられているであろうと言う点。
彼らは、構造的にそうした位置に押し込められ、不満の声を上げることを倫理的に禁じられる―という状況に置かれるものかと。
おおや先生のツィートは非常に教育的で、もう少しこっちで考えれば、一般教養の授業の演習に使えそう。ありがたいことです。
『政府が超強力な力をもって、超強力な施策をとれば、まあ割りと絵図面に描いたような共生社会ができるかもしれないけど、試してみます?』
と訊かれてしまうわけで。
『欧米諸国は概ね失敗したっぽいけど、彼等以上の”強力な政府”を作ってみますか?』
と訊かれてしまいもするわけで。