なにかすばらしいことをやった人がいるとき、近くにいる人がなにを協力したかということを考えると、「じゃまをしなかった」という手伝い方が最も多いのではないだろうか。すごいことなんだよ、「じゃまをしなかった」って。
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2017年3月17日
よくわかる。
邪魔しに来る…という意識は先方には必ずしもないのだろうが、なんというか、素で侮蔑発言しながらにこやかに話しているつもりとか、延々と人格否定発言を(ry
さて:
ヨーロッパ社会とムスリムの社会の溝がここまで深まった理由
— masanorinaito (@masanorinaito) 2017年3月18日
①9.11以来ムスリム側が激しいテロを起こしたこと
②西欧世界には、これまでのムスリムに対する支配と搾取の歴史、差別と軽侮に対する反省が一切なかったこと
この二つが繰り返し現れ互いを異化し続けて対話の可能性を消した
うむ、ところで先生:
いまの日本の大学教育に深い問題があるのはその通り。だけど、それを政権のせいにしたり、中教審のせいにしたりする前に、大学のなかに隠然と存在する「権威」やその強固な殻としての「講座」とか、一般教育担当教員を「二級市民」扱いしてきた、その根性を叩き直したほうがいい
— masanorinaito (@masanorinaito) 2017年3月6日
これも同様の排除と差別と、支配と搾取との物語ではあり。「いやあ、個々人の努力とかじゃあ、どうしようもねぇっすよね」という諦観も。
…同じ構造なんだとしたら、思うに、これは人権の主張なんである。対等のプレイヤーとして認めてともに歩むということを求めたいのである。モノによってはこっちが主導的な位置にくることもあるというだけの話だ。まあどっちみち、向こうさんのほうが基本的には主導的だろうに。あるいは、同じ品質のものなら、同じ品質として取り扱って欲しいだけだ。私が稼いできても誰が稼いできても同じカネだろうし、同じ賞だろうに。
入社前の過度の研修に対する学者による否定ってわかるんだけど、他方、企業からすると入社しても数年は自らの給与分さえ売上を出せない新人をなるべく早く育てたいという意向もわかる。つまりは、いつどこで職業訓練を受けるべきなのかという問い。
— skrnmr (@skrnmr) 2017年3月16日
大学は職業訓練という「卑しい」ことをするために存在しているのではないと主張なさるときに、では、それはどこで担われることになるのかについての示唆がないといういい加減さ。そして、医師や学校教員は許す理由も示されない。
— skrnmr (@skrnmr) 2017年3月16日
…利益を上げる訓練って、その「カネを稼いでくる」はずの領域の先生さえしてなかったりするしねえ。カネを稼いでくるような卑しい「研究」なんか自分の仕事じゃない、とか。だいぶお高くおとまりですが、そーゆー態度は哲学研究者に任せて、たくさんお金を稼いできてください、実学研究者様。
地方で学問するのは確かに文献集めの面とかでは厳しいかもしれんけど、その土地に関係する人物とか事象を専門的に研究する場合、フィールドワークの点ではメリットがあるように思うんだがどうなんだろう?
— 侘助 (@minoruno) 2017年3月13日
そうよ。
地方大学が出してる/出してた雑誌(専任教員しか書けない紀要では無く)はこの「別に本職を持ちながら生涯で2・3本論文」に応える部分もあったんだよね。
— とりん(・と・) (@trinh_JP) 2017年3月13日
そうなのよね。
なお工学系でも同じ理屈が通る(部分がわりとある)。押しも押されもせぬ大大学様でなら出来た研究も、地方のちっちゃいところだと出来やしない。それは人文系が図書館と切り離されるのと同じ事情。そこでそれなりのローカライズが求められることになる。
Togetter 今日本社会の中心にいる1980年代の大学の文系学部生は「何も勉強していなかった」?
でまあ、そういう時代に大学生やってたよーな工学・理学の人たちは、『どーせ文系出身なんか、勉強してねーんだろ』『オレのほうがよっぽど知ってる』とか思うらしく、若手文系教員を軽んじるらしいのだな。
ともあれ、一定の抽象的思考の訓練とか、資料収集の手法だとかは、そこそこ汎用的かなあ。
各学部ごとにそれなりの色づけ・方向性はあるのだろうし、それらを基礎としながら個別の現場に応用していく…のだろう。
そんなわけで、博士様には、その高度な能力を速やかにローカライズして高度に働いていただきたいところ、無駄にプライド高くて応用の「お」の字もできやしねえ、というのが、世の博士卒を見る目であるかと。