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空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

(ノート)被差別問題

2020-05-05 14:26:53 | ノート
 東北地方にもないではないが、少なくとも関西あたりと比べると非常に薄い。(現代的には)「ない」と断言しても、ほとんど憚るところがないほどだろう。講義で同和問題に言及しても、学生はだいたい狐につままれたような、というか、半信半疑というか、理解を絶した話をされているなあという顔である。「被差別特殊というものがあって、未だに西のほうの人たちは市民生活上、相当気にするものであるらしい」―という話は、そうだなあ、「実はWWII以前には、台湾や朝鮮半島には日本式の神社が建てられていたんだぜ!」という話…より、興味をひかない・曖昧模糊たるお話なのだ。

 …そうだなあ、一般教養の授業でアフガーニーの現代性についてお話した時、くらいでどうだろう。「うんまあ、おっさんの教養のひけらかしは分かった。なんか俺らの将来のどこかで関わる可能性がないではないらしいことを言っているという理屈付けも理解する。でも扱い方、時間の取り方からして、あんまりテストの点数にはなりそうにないな。2点かな。じゃあまあいいや」的な。

 そのくらいに、少なくとも若い子たちには縁遠い話なのだ。『そんなこと言って! 結婚時に差別されて悲しむのは、その当の若い子なんだぞ! お前みたいな反差別闘争的なクソ教師がいるから悲劇はやまないんだ!』という糾弾の理屈は私も理解するんだが、その瞬間まで意識されることがないくらいにまで日常生活から特殊問題が排除された世界というのは、日々意識しなきゃいけない世界よりは差別がすくない世界と言えるんじゃないかなーと思うんだ。

 あと私は”名家”出身とやらの同僚から”ちゃんとした日本人ですよね?”という差別発言かまされた側ですから。この差別主義者野郎、こちとら先祖代々、由緒正しい馬の骨だ! 帰化人だろうとなんだろうと、日本国民としての契約に入ったらそれは日本人だ! なにをろくでもないことを言ってやがる、それで戦後民主主義社会の公民と言えるか! と思うくらいには私は戦後民主主義者だな。

 そんなわけで、そんな関係のメモ。



 東北民はこれができる。私にとっては松本龍は、言論弾圧を素で、息を吸うようにやらかす、民主主義の敵として立ち現れた。





 関東甲信越では通じるはずなんだ。それなりには。東北は、「東日本」のなかでも、さらに別天地なのだ、どうも。時折、西日本と東日本を対比するなかで、東日本の典型を関東におきつつ、”まあ東北はまたちょっと違うらしいんだが”との旨、付言される文章を見ないでもない。多分、松本龍の発言も、関東でなら配慮された可能性は捨てきれない。



 まー、うちは父が造園屋ですからな。関西方面の人たちには、なんか思われてるかもしれん。知るかそんなもん。





 その「西の方」に住んでる人たちにせよ、微妙なブラックボックスになってしまってる可能性も割とある。





 そりゃあ、麻生太郎には敵わないだろう、レベルでは…一般人民ごときでは、そりゃあブラックボックスだ。

 あと、今日の学習メモ:

Wikipedia日本語版 朝田善之助

1971年には解放同盟全国大会で差別に関する3つのテーゼを定式化。これは朝田理論と呼ばれ、解放理論として永らく主導的な役割を果たした

Wikipedia日本語版 朝田理論

朝田理論(あさだりろん)とは、解放同盟中央本部の第2代中央執行委員であった朝田善之助が確立させた解放理論。朝田テーゼ、朝田ドクトリンとも呼ばれる。「不利益と不快を感じさせられたら全て差別」「差別か否かというのは被差別者しか分からない」といった、つまり『差別』と感じた者に全ての決定権と主導権があるという考え方。これを利用して役所や企業、個人を『差別した』と脅して就職・定期的補助金や無償化など金銭など利権を獲得する関係者が多数発生

 評価については、当人に対する批判とは別に、この理論の持つ危険性自体についてみるべきでしょうねえ。最近の人なので、直接被害を被った人たちの憤りもあろうし。そこは冷静な、歴史的文脈を離れた評価になじみにくい。個人名と紐づいてしまった「理論」として、いささか、扱うには注意が必要な概念だな。

 というか。政治闘争として、あまりに大きくなりすぎたというか。政治闘争化する際に個々人をあまりに道具化しすぎたというか。

Wikipedia日本語版 オールロマンス事件

糾弾の嵐の中、杉山は反省の意を表明したが、差別者の烙印を押されたまま公職を辞し、中小企業を転々とするようになった」後年、解放同盟とは対立する共産系の読書会で差別的ではないという感想を得たということで「秦はこのことを杉山に知らせて長年の苦難をねぎらおうとしたが杉山の行方は知れなかった。ようやく杉山の親族に連絡が取れたときは既に遅く、1999年に杉山は他界していたという」。

 …まあ、そういう姿を脇で見てたり、観測すれば、『そもそも関わらないでいよう』という思いを人に抱かせる結果になる例も、そりゃあ相当数発生するだろうなあと。
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