この世の法則という意味での真理は存在するかもしれない。でもそれを追求するための最低限の土俵(素粒子理論の中のTheoryと呼ばれる分野)に立つ様な能力は無く、頑張ってもその周辺にある宇宙論のさらに周辺分野を彷徨くことしかできず、それさえ生き残ることができないほどの能力しかなったのだ...
— 哀れな者 (@cle_tenta) 2018年7月27日
土俵に立つことさえ、できなかったのだ
— 哀れな者 (@cle_tenta) 2018年7月27日
能力がない...直感が働かないあの感覚...直感が働かないから勉強とかするわけですが、それで鍛錬して多少勉強したことはわかる様になっても...直感は結局働かないから...
— 哀れな者 (@cle_tenta) 2018年7月27日
直感が働かないことでも、継続した訓練である程度できる様にはなっても、結局直感が働く様には...ならないんですよね...才能がなければ...
— 哀れな者 (@cle_tenta) 2018年7月27日
直感が働かないことって、どんなにやっても、直感が働かないから、それがどんなに憧れることであっても、最終的に苦痛なんですよね...憧れても、苦しんで、苦しむことしかできない。。。やってもやっても。。。
— 哀れな者 (@cle_tenta) 2018年7月27日
それが"、それがわかるということが ""絶望"""
— 哀れな者 (@cle_tenta) 2018年7月27日
同様に才能の限界に達しながら方針の転換か展開かを成し遂げたらしい例:
数学専門の学習塾を経営している弟は、北大理学部物理学科で原子核の勉強をしていた。弟の言葉をそのまま再現すると、「全く落ちこぼれた」とのこと。教員の授業が分かるのはクラスで5人。これが東大だと10人。つまり才能の世界。でも彼は満足だったと。知の極北を知っただけで大学生活は大成功だと。
— オッカム (@oxomckoe) 2019年1月22日
その(弟さんの)話を伝える兄上のコメント。
大学の先生というのは、大学の「偏差値」レベルに関係なく、皆さん有名大学で博士号かそれと同等な業績があって、それこそ大学の序列とは全く別に学会での同業者からの序列の中で生きている研究者なのですから、極端に言えばどこの大学に入っても極限まで学問がやれるはずなのです。
— オッカム (@oxomckoe) 2019年1月22日
僕は、教育にエビデンスとかあり得るけれど、あまりにも抽象的な言葉遊びだと思っています。大事なのは博士たる私の洞察だと思っていて、やはり青年期に全てを捧げて研鑽したものは、聞き手にとって分からなくてもそれは人生に大きな力を与え、より年をとり賢明になった時、知恵になると確信します。
— オッカム (@oxomckoe) 2019年1月22日
洞察力―ということで。そうしたものが冒頭例の方には少々たらざるところあり、と、そういう自覚であったものかなあと。
…こういうことでもあるかなあと:
もう一つ、これはD3以降学位が取れず、研究も嫌になってしまった人へのアドバイスです。「この塹壕で多くの部下を失った、今更撤退できない」といいながら部隊を全滅させる指揮官になってはいけません。戦略的撤退という概念は敗北主義ではありません。
— カソクキセンパイ@契約社員 (@AccSempai) 2019年1月19日
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