車泊で「ご当地マンホール」

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篠山城址と大書院 in 兵庫県丹波篠山市

2023年07月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

慶長14年(1609)、天下普請の城として、徳川家康が十五ヶ国、二十の大名に夫役を命じ、縄張奉行に『藤堂高虎』、普請奉行に『池田輝政』を起用し、豊臣家ゆかりの諸大名を抑えるために築城された「篠山城」

完成後『松平康重』が八上城から移り、以後、徳川譜代の有力大名であった松平氏3家8代と青山氏6代の治世のもとに藩政が行なわれ、明治4年(1871)に廃城。城址には堀や石垣、天守台が残っており、馬出の遺構は、国の史跡に指定されています。

本丸二の丸に作られた3カ所の井戸のうち最も規模の大きい二の丸北に残る「井戸」。上部の直径は2メートル、底へいくほど広くなっているといわれ、水面までの深さは14メートル、水深は8メートルもあります。

城址から見下ろす石垣と内堀

「大書院」は、慶長14年(1609)の篠山城築城とほぼ同時に建てられたと考えられ、以後、幕藩体制が終わるまでの 約260年間にわたって、篠山藩の公式行事などに使用されました。廃城令に際し、二の丸御殿大書院は篠山尋常小学校の校舎として。また明治43年(1910)からは多紀郡公会堂として利用されてきましたが、昭和19年(1944)1月6日 、失火により焼失。現在の大書院は2000年4月に復元されたものです。

建物内に展示されていた精巧な模型。北正面に唐破風をつけた車寄があり、 東に中門が突き出す様式で、内部には8つの部屋。藩主の着座する上段の間は、大床、違棚、帳台構、 付書院が設けられています。

本丸跡に鎮座されるのは青山家の遠祖『青山忠俊公』を御祭神として明治15年(1882)に創建された「青山神社」

境内に残された御神木

明治45年(1912)から大正11年(1922)まで、二の丸に存在した「兵庫県立篠山高女跡」の碑。

丹波篠山市庁舎の正面から見る大書院。外堀に写る影は折々の季節に彩られながら、静かに篠山の城下を見守っています。

訪問日:2007年7月7日&2009年5月30日

 

コメント (6)
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