石段を上った先の正面、昭和43年(1968)建立の「大本堂」には、本尊『不動明王像』を安置します。
縁起には「平安時代中期、東国で起こった『平将門』の乱に対し、朝廷は追討軍を差し向けると同時に、将門調伏の祈願を大寺社や密教僧に命じた。天慶2年(939)、『寛朝僧正』も『朱雀天皇』の密勅を受けた。『寛朝』は、京の高雄山・神護寺の護摩堂に安置されていた「空海作の不動明王像」を奉じ、海路で上総国に至り尾垂浜に上陸後、陸路で下総国公津ヶ原へ入り、この地にて朝敵調伏の不動護摩供を奉修した。ややあって将門は戦死。その後『寛朝』が帰京しようとしても『不動明王像』が動かぬとの報せを聞き、公津ヶ原にて東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、『寛朝』に開山せしめ、「神護新勝寺」の寺号を下賜したという。」
大本堂の設計は数寄屋造りの第一人者『吉田五十八』氏によるもので、昭和43年の建立。 余談ですが、大本堂の地鎮祭では『横綱大鵬・横綱栃の海』による土俵入りが奉納されたそうです。
大本堂の手前右手には、正徳2年(1712)に建立された高さ25メートルの「三重塔」が聳えます。 塔の初層は各面の中央を扉とし、その両脇の柱間には『十六羅漢』の彫刻。宮大工棟梁は、常州那珂郡羽黒村の『桜井瀬左衛門』、更に『中野左五兵衛・藤田孫平次』と蒼々たる顔ぶれ。
国指定重要文化財の「三重塔」、その鮮やかな美しさを見るには、下から見上げるのが一番。 もう少し上等のデジカメと腕があれば、もっと詳細に柄の細部まで紹介できるのですが・・・自分の腕は棚に上げての嘆きです😅
三重塔:扉上部には四方に彫刻があり、南側には有名な「孟母(もうぼ)三遷」。 周りの環境に影響される「孟子(もうし)」の為に、三度も住まいを変えた母。 子供の教育にとって環境がいかに大事かという教えですが・・まぁ、昨今のお子様方にはあまり関係ないかも😅。
鮮やかな「三重塔」に負けないほど鮮やかな「鐘楼」は、元禄14年(1701)の建立。 成田市指定文化財で、毎日、朝・昼・夕の三回、職員によって門前に時が告げられています。
「鐘楼」に並んで建つのは文化6年(1809)に再建された「一切経堂」。 正面に掛けられた扁額は、『松平定信』の揮毫によるもので、文化11年(1814)の奉納。
唐破風屋根の正面・蟇股には、二十四孝の一人「老来子(ろうらいし)」の彫刻。 「老来子」は70歳になっても幼児のように振る舞ってみせ、親に老いを感じさせないようした孝行息子だそうです。私にはこの中国の「二十四孝」なるもの、何がどう孝行に優れているのか、どうしても理解不能😅
八体の鬼神が支える「輪転経蔵」は、「一切経堂」と共に成田市指定文化財。 遠目からでも見て取れる鮮やかな装飾は、まさしく仏を具現する輝きかもしれません。
2014年の参拝の際には中に入る事ができたので、経蔵を支える鬼神をカメラに残して来ました。 他の彫刻も興味深いものが多くあり期待していたのですが、今回の参拝では、何故か内部への立ち入りが禁止になっていました。
「一切経堂」の八枚の花頭窓には、「画竜点睛」や「寒山拾得」などの彫刻が施されています。 左上で巻物を広げているのが『寒山(かんざん)』、下で箒を持っているのが『拾得(じっとく)』、いずれも中国の僧侶です。巻物はわかるのですが箒は何で?? 実は『拾得』さん、某寺の拾われ子で寺の雑用をしていたんですね。だから箒を持った姿で描かれています。 拾ったもの=拾得物=拾得、言葉の由来にものすご~~く納得😊
成田山新勝寺~其の五に続きます
参拝日:2014年5月20日&2019年3月18日
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