掛川市日坂にある「日坂宿(にっさかしゅく)」。東海道五十三次二十五番目の宿場で、「箱根峠」「鈴鹿峠」と並び、東海道三大難所と呼ばれる「小夜の中山峠」の西麓に位置します。
『歌川広重』の東海道五十三次に描かれた、真っすぐに切り立った急斜面。それと並行して作られた街道を歩く旅人たちの様子からも、その険しさがうかがい知れる小夜の中山。東海道で一番小さな宿場と言われた「日坂宿」はそんな難所の麓に位置します 急斜面の真ん中に描かれているのは、遠州七不思議の一つ「小夜の中山の夜泣き石」。
車泊でお世話になった「小笠PA」の記念スタンプにも、広重描く「小夜の中山の夜泣き石」がデザインされています。
日坂宿:片岡本陣扇屋跡に残されているのは、家紋を染め抜いた門と、当時を語る説明だけ。 嘉永5年の日坂宿大火で全焼した「扇屋」は、のちに再建しましたが、明治3年に閉店。その後、跡地は日坂小学校の敷地とされ、家屋は校舎として利用されましたが、そのいずれも今は現存していません。
門の奥に広がる跡地に建立された碑は、『明治天皇』東幸の際に『片岡金左衛門』宅にて小休された旨が刻まれています。
天保14年(1843)の記録によると、日坂宿には本陣1軒、旅籠屋33軒、168軒の家があり750人が居住していたとあります。
『大田南畝』の「改元紀行」には【日坂宿の家々はわらび餅を売り、足いたみの薬、足豆散・足癒散等を売るものも多い】と記されており、難所と言われた峠越えの厳しさが伝わってきます。
本陣は跡形もなく消え去りましたが、宿場の街道沿いには当時を物語る建物が僅かながらも残されています。
ここは日坂宿最後の問屋役を務めた『伊藤文七』の自宅で、「藤文」の屋号で呼ばれていました。維新後の明治4年(1871)には、日坂宿他27カ村の副戸長に任ぜられたそうで、宿場の実力者的存在だったようです。
ちなみにですが・・2011年に訪問した折には、右隣には別の建物が付属していました。
「萬屋」は間口四間半。幕末としては中規模の造りで、もっぱら庶民の泊まる旅籠として使われました。 一階が「みせ」と「帳場」で、二階には宿泊のための「座敷」が今も残されています。
宿場の西に建つ「川坂屋」は、問屋役を務めていた『斉藤次右衛門』が始めたと伝えられています。 身分の高い武士や公家などが宿泊した記録などから、格の高い脇本陣格であったことが伺えます。
「川坂屋」は、明治3年まで旅籠屋として存続し、以後も要人には宿を提供していたそうです。 内部は江戸より招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作され、格式の高さが今も残されており、休日には内部の無料公開もあるとの事・・。生憎と日程の折り合いがつかずで、外観のみ。
「川坂屋」の向かいにある「紫雲山 光善寺(宝聚山 相傳寺)」。境内入り口には火防鎮護の「秋葉常夜灯」が奉納されています。
「遠江:三十三観音霊場」『聖観世音菩薩』を霊場本尊としており、境内には沢山の幟が奉納されています。折角宿場の外れまで来たのですから、みんなで旅の無事と安全を願い手を合わせましょうか。
相傳寺横の「高札場跡」には、記録に基づいて復元された天保年間の高札八枚が掲げられています。親子高札は忠孝札とも呼ばれ、親子・兄弟・夫婦・親類縁者みなともに、仲良くするように。火付高札は、火事の際にみだりに騒がず、また火事場泥棒は厳罰に。毒薬やにせ薬の売買を禁止する毒薬高札。みだりに徒党を組むことを禁止する徒党高札・・切支丹高札、伝馬高札、駄賃増高札等々。信教の自由を声高に言い募って「切支丹高札」を批判する人も、たとえばそれのみを国教とする国で、他国の念仏や呪術を大っぴらにやれば・・多分胴体と首が離れ離れになります。
宿場の外れと呼ぶべきか宿場の入り口と呼ぶべきか。古宮橋が架かる逆川のこの位置が、当時の「下の木戸」の跡。下の木戸は宿場への出入り口にあたるところで、ある一定の時刻になれば通行出来ないように閉ざされてしまいます。場所によっては「見附」「棒鼻」などとも云われ、特に見附はそれがあった場所にちなんで地名となった所も多く見かけます。
鳥居の奥の「秋葉常夜灯」は、「事任八幡宮」参拝後に日坂宿に入る途中で見かけたもの。 何よりも火事を恐れた人々にとって、火防鎮護である秋葉権現への信仰は絶大なものだったのでしょう。
訪問日:2011年11月14日&2016年12月13日
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