山口市阿知須、周防灘に面し古くは阿知須浦と呼ばれ、江戸時代中期から明治初期に廻船業の港町として栄えた阿知須浦地区。「阿知須町史」には江戸時代の初期には既に16隻、後期には60隻の廻船が居たと伝えています。
その昔、阿知須浦では茅葺や藁葺の家が密集し、ひとたび出火すれば大火となり甚大な被害を受けてきました。このため廻船業の人たちは瓦葺の屋根、漆喰で塗り固めた大壁、泥戸等、防火機能に優れた建物、いわゆる「いぐら造り」の建物を建てました。阿知須浦地区には、現在でもその面影を残した白壁の街並みが残されています。
阿知須の居蔵造を代表する「旧中川家住宅」は、明治17年(1884)の建築。中川家は、水軍の末裔として音頭の瀬戸(呉市と倉橋島の間の海峡)から渡って来たと伝えられ、江戸後期から明治期にかけて阿知須廻船業の中心となった家柄です。
家屋は2004年に阿知須町に寄贈され、保存工事の後、2008年より山口市教育委員会の施設「旧中川家住宅:阿知須いぐらの館」として一般公開されています。
館内には廻船業の歴史、居蔵造の特徴、阿知須地域の民俗資料などが展示され、何と!一般に無料公開されています💛
館の中に一歩足を踏み入れた瞬間、思わずわぁ~と声が上がる華やかな彩。
部屋全体が女の子の夢をギュッと凝縮したような艶やかさと華やかさは、阿知須町で作られる吊るし飾り、「ひなもん」と呼ばれています。
更に館内には「おっ!」と目を引く展示が一杯。特にこれ。「丸に己は野村屋一門の家紋“定匂判”で、同じ紋を使っている家は中川家のように廻船業を営んでいる。(添付説明)」・・・ところがこの定匂判と言うのが、いくら検索してもヒットしません、正しい読みさえも不明・・何なんだろう??
「有限責任 阿知須 廻船商購買組合」と書かれた真っ赤な桜が目を引く幡、五つ玉の算盤、定匂判が大きく書かれた箱のようなもの等々・・
画像が鮮明でないので今ひとつ豪華さが伝わりにくい、違い棚が設けられた床の間付の広い居間。
上半分が切れてしまいましたが、屋久杉で作られた欄間と、見事な花鳥の襖絵。
同じく山水画の襖絵
西庭園を望む縁側
ガラス越しのお日様は暖かく、目に映る景色も晩秋とは思えない柔らかさ。
味わいのある釣瓶が掛けられた井戸。そう言えば中川家には井戸が4つあって、中でも407個の石で作られた防火用大井戸・・海水の入生け簀にも利用された井戸、あれ?どこにあったんだろう??
旧中川家を辞してお隣は、明治後期建築の「河野家住宅」。平入り入母屋造りの中2階建てで、両側に袖庇葺き降ろしの居蔵造。昭和25年(1950~1951)年頃まで廻船業を営み、明治・大正期には阿知須廻船業の中心的役割を果しました。
楽しい飾り物に思わず足が止まり、そうしてガラスケースに並べられた小布の小物にハートを射抜かれました。
画像左奥に見える「沖見灯籠」は慶応2年に慶応橋を架けた時、余った工事費で作られたとか、廻船業の人達の上陸の目標として重宝されました。
訪問日:2015年11月13日
🌸明日からは山口県宇部市の紹介です。
おはようございます!
素敵なところですね。
まるで、忍者屋敷みたいで行ってみいたいですねぇ😌😌
忍者屋敷と言えば
滋賀県の甲賀忍者屋敷に
ず~~~と昔、行ったことが有ります
でも中がどんなだった実はちっとも覚えていません😅
居蔵造の町並みと富裕な廻船業者のお屋敷など、興味を持って拝見しました。
「楽しい飾り物に思わず足が止まり、そうしてガラスケースに並べられた小布の小物にハートを射抜かれました。」
でも私は、貴方の言葉に驚きました。元女の子だった家内がそっくりな心というのか、気持ちと言いますか、そんな姿をしています。
それでついつい、この女の子を喜ばすため、日本各地や海外旅行を、やりくり算段してつき合いました。
足が弱くなったから、もうどこへも行けなくなったなと、時々言いますと、返ってくる答えがいつも同じです。
「でも、もういいよ。いっぱいあちこち連れて行ってもらったらから、思い残すことないよ。」
「いつ死んでも、後悔がない人生だったと思うよ。」
ふうんと言って聞き流しますが、tononeko殿もそんな気持ちでおられるのかなあと、ふとそう思いました。
関係のない話で、すみません。
「いっぱいあちこち連れて行ってもらったから」
「後悔がない人生だったと」
お二人の会話は、穏やかな春の日だまりみたいに優しくて
冬の朝に、庭の片隅にホワッと蕾を膨らませた水仙の花みたいに温かくて。
知らずに口元に笑みが浮かびます。
無機質な筈のパソコンの向こうに
優しい空の色が広がりました