古くより三島の地に鎮座され、『三嶋の神』は東海随一の神格とされてきた「三嶋大社」。 中世以降には武士の崇敬を集め、殊に伊豆に流された『源頼朝』は『三嶋神』を深く崇敬したと云います。『三嶋神』に源氏再興を祈願し、神助を得てこれが成功するや、その崇敬は更に強くなりました。神社の絵馬には、三嶋大明神の旗印と共に「源頼朝旗挙の様」が描かれています。
境内の神池(しんち)に造られた中の島に鎮座される「厳島神社」。御祭神は『市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)』。『北条政子』が勧請し、殊の外信仰したと伝えられ、また鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」には、『源頼朝』がこの神池で放生会を行なったと言う記述も残されています。
「蘭渓燈籠(らんけいとうろう)」と朱塗りの社殿のコラボが美しい。
この建物は「神馬舎」なのですが、実は主役は右の黒い丸の中の「頼朝腰掛石、北条政子腰掛石」。治承4年(1180)、頼朝が源氏再興祈願の為百日間の日参をした折、休息した石と伝えられています。本来ならそちらを写している筈なのに、二度の参拝で誰も写していないという不思議・・(^^;)
赤松と黒松が一つの根から生えた「相生松」。でもポイントは松では無く、この松が植えられている場所。実は頼朝の従者「安達籐九朗」がここで警護をしていた跡・・。 腰掛け石もですが、従者が警護した場所まで残されているとは、さすがと言うか何と言うか・・(^^;)
参道の一隅にあった「古今伝授(こきんでんじゅ)のまち三島」の碑。何でここに?と検索したら、古今和歌集の解釈伝授が、室町後期に「東常縁(とおおのつねより)」から初めて、民間人の「飯尾宗祇」に伝えられた場所が三島だったという事から。いや~、知りませんでした。
鳥居を潜ってすぐの場所に置かれた「たたり石」。もしかして触ると祟られる怨霊系!? では無く、実はこの石、大社前の東海道中央に置かれ、街道を行き交う人の流れを整理していた石。「たたり」は「絡垜」と書き、糸のもつれを防ぐ=人の流れを整理するという意味ですが、人の往来が頻繁になるに従い、この石を取り除こうとする動きが出始めます。ところがその度に災いが起き、いつしか「たたり」は「祟り」に置き換えられてしまいました。 同じ言葉でありながら、これほど意味の異なるものに変化すると言う事実に唖然。曰く因縁を持ってしまった「たたり石」は、大正時代の東海道道路改修によって三嶋大社境内に移されました。
大社を後にする時、足元に見かけた「三嶋暦師の館」の案内プレート。「三嶋暦(みしまこよみ)」は、室町時代から明治5年まで、三嶋大社より一般に頒布された暦の名称。 細字の文字模様が非常に美しく、仮名文字で刷られた暦として日本で一番古いと言われています。
「三嶋大社」の宝物館には、市指定有形文化財の「三四呂(みよろ)人形」も収蔵されています。「三四呂人形」は三島市出身の人形作家『野口三四郎』が制作した「張子人形」の総称。市役所のロビーに展示されていた「三四呂人形」ですが、なんとも素朴で可愛いらしい。
「三嶋神社」への最寄駅でもある「三島駅」。木造一階建ての駅本屋は『神保忠良』によって設計。屋根の緩やかな曲線は「富士山」と「三嶋大社」をイメージしているそうです。
三島駅の屋根、2016年に訪問した際には下の車寄せの部分が無くなっていました。前回のイメージで言うなら、「三嶋大社」の部分がすっぽりと消えてしまったような・・・(-_-;)
三嶋大社からどんどん離れてしまいましたが、最後に駅に設置されたポストの上で「三島農兵節」を踊る踊り子さんモニュメント。【富士の白雪ゃノーエ~♪富士の白雪ゃノーエ~エエ~富士のサイサイ♪~~白雪ゃ~ 朝日で解ける~~♪】
参拝日:2011年11月11日&2016年12月8日
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